年表 17898 月 21 日、バスティーユ陥落の五週間後にパリで生まれる。 1794恐怖政治のさなか、一家はアルクイユに避難し、ラプラスの隣人となる。 1805エコール・ポリテクニークに入学試験二位で入学する。 1810ナポレオンの軍港工事の技師としてシェルブールに赴く。 1813体をこわしてパリに戻り、フェルマーの多角数定理を証明する。 1816国王の勅令により、モンジュに代わって科学アカデミー会員に任命される。 1821エコール・ポリテクニークの『解析教程』を出版する。 1825虚数の限界のあいだでとった定積分についての論文を提出する。 1830ルイ=フィリップへの忠誠の宣誓を拒み、亡命する。 1833プラハで、シャルル十世の孫ボルドー公の家庭教師となる。 1838パリに戻る。 1848新しい共和政が宣誓を廃止し、翌年ソルボンヌの教授職に就く。 18575 月 23 日、ソーで 67 歳で死去。 革命の子 オーギュスタン=ルイ・コーシーは 1789 年 8 月 21 日にパリで生まれた。バスティーユは 7 月 14 日に陥落しており、父ルイ=フランソワ・コーシーはパリ警察の高官だった。旧体制のこの職は、一夜にして危険なものになった。1794 年、恐怖政治のさなか、一家はパリの南、アルクイユにあった田舎の家に逃れた。そこで一家は飢えと貧しさを経験した。オーギュスタンはひよわな子どもで、病弱さは生涯ついてまわった。 教養のある父は子どもたちを自宅で教えた。ラテン語とギリシア語をたっぷりと、そして熱心なカトリックの信仰を。オーギュスタンはこの信仰を最後まで持ちつづけた。アルクイユでの隣人は数学者ピエール=シモン・ラプラスと化学者クロード・ルイ・ベルトレで、二人は自宅に科学者のサークルを集めていた。 1799 年のナポレオンのクーデタのあと、父は元老院の事務総長に任命され、リュクサンブール宮に執務室をもった。元老院議員のなかに、当時存命の最大の数学者ジョゼフ=ルイ・ラグランジュがいた。彼は少年に会い、強い印象を受けた。 この小さな若者が見えますか。彼はいずれ、われわれ幾何学者をみな追い越してしまうでしょう。 — ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、クロード=アルフォンス・ヴァルソンの記述による(1868) ラグランジュは父親に、少年が 17 歳になるまで数学の本を開かせず、まずしっかりした文学の教育を与えるよう勧めたという。さもないと、才能が時期より早く彼を連れ去ってしまうからだ。父はこの助言にしたがった。パンテオン中央学校で、オーギュスタンはラテン語とギリシア語の詩の賞をとった。 シェルブールの技師 1805 年、16 歳のコーシーはエコール・ポリテクニークに入学試験二位で入った。二年後、土木工学の学校である国立土木学校に進んだ。1810 年、ノルマンディー海岸のシェルブールに派遣された。ナポレオンはそこで、イギリスとの戦争のための大きな軍港を建設していた。伝記作者ヴァルソンによれば、彼は荷物のなかに、ラプラスの『天体力学』、ラグランジュの『解析関数論』、ウェルギリウス、そして『キリストにならいて』を入れていった。 昼は一日じゅう工事現場で働き、夜は数学をした。1811 年には、ルジャンドルとマリュスが出した凸多面体についての問題を解き、1812 年には行列式についての長い論文を書いた。1813 年、疲れはてて病を得た彼はパリに戻った。同じ年、フェルマーが 1638 年に証明なしで述べていた多角数定理を証明した。24 歳にして、彼はすでにヨーロッパじゅうに知られていた。 1840 年ごろのオーギュスタン=ルイ・コーシー。ジャン・ロレール作とされる肖像で、現在はソー城にある。Jean Roller · ウィキメディア・コモンズ · パブリックドメイン モンジュの席 ナポレオンが倒れてブルボン家が戻ると、革命と結びついた科学者たちは遠ざけられた。1816 年、国王の勅令がラザール・カルノーとガスパール・モンジュを科学アカデミーから追放し、モンジュの席にコーシーを任命した。筋金入りの王党派だったコーシーはためらわずに受けいれ、多くの同僚はそのことをけっして許さなかった。同じ年、彼は液体表面の波の伝播についての研究でアカデミーの大賞を受け、エコール・ポリテクニークの解析学の教授となった。 1818 年、書店と出版業を営む一族のアロイーズ・ド・ビュールと結婚し、二人の娘をもうけた。それにつづく数年がもっとも創造的な時期だった。1821 年の『解析教程』、1823 年の『無限小計算講義要録』、1822 年の固体の応力の理論、そして 1825 年の複素平面上の積分である。 しかし講義は問題だった。コーシーが求める厳密さを、将来技師になる学生たちは理解もしなければ、望みもしなかった。学校の管理者は、彼が証明に時間をかけすぎると苦情を言った。1826 年、彼は自分だけの雑誌『数学演習』を創刊し、号を重ねるごとに、ひとりですべてを書いた。 コーシーが読まなかった原稿 コーシーは、アカデミーに送られる重要な研究のほとんどすべての当然の査読者だった。そのうち二つは、彼の手のなかでたどった運命によって有名になった。1826 年、ノルウェーのニールス・ヘンリク・アーベルは積分についての大論文を提出した。コーシーはそれを家に持ち帰り、書類のあいだに置き忘れた。論文が出版されたのは 1841 年、アーベルの死から十二年後のことだった。1829 年には、エヴァリスト・ガロアの方程式についての研究も、報告なしに彼の手を通りすぎた。この件では、コーシーがガロアに、論文をまとめ直して大賞に応募するよう勧めたらしい形跡があり、それなら励ましの身ぶりだったことになる。しかしどちらの場合も、二人の若い天才は自分の仕事が認められるのを見ずに死んだ。 亡命 1830 年 7 月、革命がシャルル十世を倒し、ルイ=フィリップを王位につけた。すべての公務員は新しい王に忠誠を誓わなければならなかった。コーシーは拒んだ。彼にとって、ブルボン家に立てた誓いは破れないものだった。彼はすべての職を失い、9 月にフランスを離れた。まずスイスへ、それからトリノへ向かい、ピエモンテ王は彼のために理論物理学の講座を設けた。1831 年、トリノで、今日彼の名がついている積分公式を書いた。