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生活では満点、学校では零点:紙の外の数学

1980 年代のはじめ、ブラジルのペルナンブーコ連邦大学の三人の研究者、テレジーニャ・ヌネス・カラーヘル、デイヴィッド・カラーヘル、アナルシア・シュリーマンは、レシフェの市場へ行き、ヤシの実やトウモロコシやポップコーンを売る 9 歳から 15 歳の子どもたちと話した。客のふりをして、買い物のときに計算問題を出したのである。あとで彼らは、同じ計算を学校ふうに紙に書いて持っていった。 1985 年に『街の数学と学校の数学』(Mathematics in the streets and in schools)という題で発表された結果は、有名になった。市場では、子どもたちは計算の約 98% に正しく答えた。同じ計算を文章題として出すと約 74%。物語のない筆算の練習として出すと約 37% だった。のちに著者たちがブラジルで出版した本は、題名で事情をまとめている。Na vida dez, na escola zero(1988)、「生活では満点、学校では零点」。 二つの計算のしかた 変わったのは計算ではなく、記法だった。研究に記録された会話のひとつで、客が一個 35 クルゼイロのヤシの実を四つ買うといくらかとたずねる。少年はおおよそこう答える。「三つで百五、三十足して百三十五、五足して百四十。」彼はすでにおぼえている値段(ヤシの実三つ)から出発し、少しずつ足していき、一歩ごとに、それぞれの数が何であるか、つまりお金でありヤシの実であることを知っている。 紙の上では、同じ計算は $35 \times 4$ となり、列にそろえて、くり上がりをして書かれる。筆算のアルゴリズムが強力なのは、まさに意味を忘れるからである。ヤシの実でもメートルでも年でも同じように働く。しかし意味を忘れると、生徒は手綱も失う。どこかの位をまちがえても、ヤシの実四つで $1400$ クルゼイロがばかげていることに気づかない。路上では、この手綱は決して失われない。 民族数学 ブラジルの数学者ウビラタン・ダンブロジオ(1932–2021)は、1970 年代から、学校の外に生きるこうした数学を研究する分野に名前を与えた。民族数学(エトノマテマティカ)、つまりそれぞれの文化的な環境(エトノ)で現実を説明し扱う(マテマ)しかた(ティカ)である。市場の売り手、大工、お針子、漁師、先住民。だれもが、自分なりの、しばしば口頭の記法と手順で、数え、はかり、比べ、計算している。 2001 年、国際数学史委員会のケネス・O・メイ・メダルを受けるウビラタン・ダンブロジオ。International Commission on the History of Mathematics · ウィキメディア・コモンズ · CC BY-SA 4.0 モザンビークでは、数学者パウルス・ゲルデスが ソナ を研究した。アンゴラのチョクウェの人々が砂の上に描く絵で、指を離さずに一本の線で点の格子のまわりをめぐるものである。その背後には、最大公約数や対称性で書ける規則性がある。民族数学は、こうした営みが服を着がえた学校の数学と「同じ」だと言うのではない。それらは本物の知識であり、学校はそれを無視するのではなく、そこから出発するときに得るものがある、と言うのである。 民族数学とは、都市や農村の共同体、労働者の集団、職業階層、ある年齢層の子どもたち、先住民の社会、そして目的と伝統を共有することで自らを認めあうほかの多くの集団など、文化的な集団によって実践される数学である。 — ウビラタン・ダンブロジオ『民族数学:伝統と近代のあいだのきずな』(2001) 橋 記法にとっての教訓は二重である。学校の書き方だけが数学的に考える方法ではなく、紙の上で失敗する生徒が生活の中では上手な計算家かもしれない。しかし学校の書き方は、口頭の計算にはないものを与える。一般性、記録、確かめて人に伝える可能性である。よい教育は二つのあいだに橋をかける。「三つで百五」から出発して、$4 \times 35 = 3 \times 35 + 35$ が同じことを別の書き方で書いたものだと示すのである。

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参考文献と図版の出典

さらに読むために Seron, Xavier; Fayol, Michel. Number transcoding in children: a functional analysis. British Journal of Developmental Psychology, 12, 1994, pp. 281–300. Miura, Irene T.; Kim, Chungsoon C.; Chang, Chih-Mei; Okamoto, Yukari. Effects of language characteristics on children’s cognitive representation of number: cross-national comparisons. Child Development, 59, 1988, pp. 1445–1450. Skemp, Richard R. Relational understanding and instrumental understanding. Mathematics Teaching, 77, 1976, pp. 20–26. Gray, Eddie M.; Tall, David O. Duality, ambiguity, and flexibility: a “proceptual” view of simple arithmetic. Journal for Research in Mathematics Education, 25(2), 1994, pp. 116–140. Halliday, Michael A. K. Language as Social Semiotic. London: Edward Arnold, 1978. 数学のレジスターについての章。 Pimm, David. Speaking Mathematically: Communication in Mathematics Classrooms. London: Routledge & Kegan Paul, 1987. Baruk, Stella. L’âge du capitaine: de l’erreur en mathématiques. Paris: Seuil, 1985. Brousseau, Guy. Théorie des situations didactiques. Grenoble: La Pensée Sauvage, 1998. Pólya, George. How to Solve It. Princeton: Princeton University Press, 1945. 邦訳:ポリア『いかにして問題をとくか』丸善。 Matz, Marilyn. Towards a process model for high school algebra errors. In: Sleeman, D.; Brown, J. S. (eds.). Intelligent Tutoring Systems. London: Academic Press, 1982, pp. 25–50. Gray, Jeremy J. A commentary on Gauss’s mathematical diary, 1796–1814, with an English translation. Expositiones Mathematicae, 2, 1984, pp. 97–130. Berndt, Bruce C. Ramanujan’s Notebooks, parts I–V. New York: Springer, 1985–1998. Kanigel, Robert. The Man Who Knew Infinity: A Life of the Genius Ramanujan. New York: Scribner, 1991. Halmos, Paul R. How to write mathematics. L’Enseignement Mathématique, 16, 1970, pp. 123–152. Knuth, Donald E.; Larrabee, Tracy; Roberts, Paul M. Mathematical Writing. Washington: Mathematical Association of America, 1989. Nemeth, Abraham. The Nemeth Braille Code for Mathematics and Science Notation. Louisville: American Printing House for the Blind, 1972. 図版の出典 図版 出典 ライセンス イシャンゴの骨 ウィキメディア・コモンズ CC BY-SA 4.0、Joeykentin ニコライ・ボグダノフ=ベリスキー『暗算』(1895) ウィキメディア・コモンズ パブリックドメイン ガウスの日記の最初の記録(1796) ウィキメディア・コモンズ パブリックドメイン ガウスの日記の「ΕΥΡΗΚΑ」(1796) ウィキメディア・コモンズ パブリックドメイン ラマヌジャンのノートの一ページ ウィキメディア・コモンズ パブリックドメイン 『研究と発明』のキュバリトム(1926) ウィキメディア・コモンズ パブリックドメイン 対話型の図(話すとおりに書いた数、まちがった規則、ガウスのエウレカ)は、このサイトの四つの言語すべてで動く。ダウンロードした図版の記録と各ファイルのハッシュは data/semiotica_imagens.json にある。

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数学の読み書きを身につけるには:手引きと用語集

この章は学ぶ人によりそってきた。数を書き写す子ども、文章題を読む生徒、解答を書く学生。以下の手引きは、そのどの場面でも役に立つ習慣を集めたものである。 六つの習慣 鉛筆を手に読む。 数学の文章は密度が高い。一行が一段落に相当することもある。ポール・ハルモスは「ただ読むな。闘え!」と勧めた。計算をやり直し、例を考え、各段階がなぜ成り立つのかを問うこと。 声に出して読む。 $\sum_{k=1}^{n} k^2$ を「$k$ の二乗の、$k$ が一から $n$ までの和」と言うと、各部分を見分けざるをえない。話しことばがつかえるところでは、読みもつかえている。 計算する前に形を見る。 最後の演算は何か。くり返し、対称性、二度出てくる数はあるか。ボグダノフ=ベリスキーの黒板は、見ることで解ける。 両方向に翻訳する。 文章から式へは、未知のものそれぞれに名前と単位をつけて。式から文章へもどっては、それが問題の言っていることを言っているかを確かめるために。 数で試す。 規則を信じる前に、小さな値を代入する。反例ひとつでまちがった規則はくつがえる。たくさんの例は正しい規則を証明しないが、証明を探す自信を与えてくれる。 だれかのために書く。 完全な文、式のあいだのことば、計算の前に示される目標。友だちが解答をたどれないなら、それはまだできあがっていない。 書き方の悪い解答をまるごと読む ある生徒が「$2x + 3 = 11$ を解け」に、次の解答を出した。 $$2x + 3 = 11 = 2x = 8 = x = 4.$$ 正しいところ: 答えの $x = 4$ と、計算そのもの。 書かれていること: $11 = 8 = 4$ と主張する等号の鎖で、これは誤りである。等号が「そして次に」として使われている。第4章が区別しなければならないと示した使い方のひとつだ。 生徒が従った規則: 「したことを順番に、段階のあいだに等号を入れて書く」。一貫した規則だが、話しことばのレジスターと記号のレジスターを混ぜている。 書き直し: 「両辺から $3$ をひくと $2x = 8$。$2$ で割ると $x = 4$。確かめ:$2 \cdot 4 + 3 = 11$。」 得られたもの: どの行も、それだけで正しくなった。読み手は、ある行と次の行のあいだで何がなされたかを知っている。 用語集 転記。 数をある表し方から別の表し方へ移すこと。たとえば話しことばの数詞から書かれた数字へ。 転記の誤り。 数を話すとおりにかたまりごとに書くこと。trezentos e quatro(三百と四)を $3004$ と書くなど。 数学のレジスター。 数学について話すために使われる言語の変種。ふだんのことばが取り決められた意味で使われる(ハリデー)。 教授学的契約。 生徒と先生が口に出さずに従う規則の集まり。「どの問題にも答えがある」など(ブルソー)。 キーワード。 演算の命令と受けとられる問題文のことば(「多い」なら足す)。うまくいくこともあるが、よく人を誤らせる。 約束。 取り決められた、ほかのものでもありえた規則。演算の順序、小数点、$\sin^2 x$ の意味など。 まちがった規則。 正しい規則からの類推でつくられた誤った規則。分配法則からの $(a+b)^2 = a^2 + b^2$ など(マッツ)。 反例。 一般的な主張が成り立たない場合。ひとつあればその主張はくつがえる。 プロセプト。 過程であると同時に、その過程が生み出す対象でもある記号。$3+4$ や $13^2$ など(グレイとトール)。 道具的理解と関係的理解。 規則の当てはめ方を知っていることと、さらにそれがなぜ成り立つかも知っていること(スケンプ)。 線形の記法。 位置の代わりに開始と終了の記号を使い、一列で書く書き方。ネメスの点字、TeX、電卓など。 練習:手引きを使うある生徒が書いた。「$\sqrt{x^2 + 9} = x + 3$、だから $x = 4$ のとき $7$ になる。」習慣 5 を使え。 $x = 4$ のとき、$\sqrt{16 + 9} = \sqrt{25} = 5$ であって、$7$ ではない。使われた規則 $\sqrt{a + b} = \sqrt{a} + \sqrt{b}$ は、分配法則からの類推によるまちがった規則であり、数でたった一度試すだけでくつがえる。等式 $\sqrt{x^2+9} = x + 3$ は $x = 0$ のときにしか成り立たない。

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筋の通った誤り:まちがった規則

クラスで $(a+b)^2$ はいくつかと聞くと、一部の生徒は $a^2 + b^2$ と答える。$\sqrt{9 + 16}$ はいくつかと聞くと、だれかが $3 + 4 = 7$ と言う。これらの誤りはあまりにありふれていて、学校がちがってもあまりに似ているので、偶然ではありえない。ある規則に従っているのである。 広げすぎた規則 1982 年、アメリカの研究者マリリン・マッツは高校生の代数の誤りを調べ、その多くが正しい規則から組み立てられたまちがった規則(malrules)から来ていると提案した。中でもいちばん多くの誤りを生むのは分配法則である。 $$a(b + c) = ab + ac.$$これは正しく、早くから出てきて、いつも使われる。生徒は「外にあるものは各項に入る」と覚え、だれもそうではないと言わなかったので、和に何かの演算をほどこしているように見えるものすべてに、その動作を広げる。 $$(a+b)^2 \overset{?}{=} a^2 + b^2, \quad \sqrt{a+b} \overset{?}{=} \sqrt{a} + \sqrt{b}, \quad \frac{1}{a+b} \overset{?}{=} \frac{1}{a} + \frac{1}{b}, \quad \sin(a+b) \overset{?}{=} \sin a + \sin b.$$どれもまちがっている。どれも分配法則と同じ形をしている。記法の観点から見ると、生徒は書かれたものをとてもよく読んでいる。見た目のパターンを見つけ、それを一貫して当てはめている。欠けているのは、形だけでは足りないと知ることである。分配法則がかけ算について成り立つのは、かけ算がどういうものかによるのであって、かっこの見た目によるのではない。 この対話型の図を使うには JavaScript を有効にしてください。議論の全体は本文にあります。 虫めがねとしての反例 まちがった規則をくずす道具は反例、つまりその規則が成り立たないたったひとつの場合である。$a = 3$、$b = 4$ とすると、$(a+b)^2 = 49$、$a^2 + b^2 = 25$。これで終わりだ。規則は死んだ。$(ab)^2 = a^2 b^2$ のような正しい規則は、どんな試しにも生き残る。上の図で試してみることができる。

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だれも書かない約束

どんな書きことばにも、だれも習った覚えのない規則がある。日本語の横書きは左から右へ、縦書きは上から下へ読む。アラビア語は右から左へ読む。数学の書きことばにもこの種の規則があり、中には数学の真理のように見えるほど強いものもある。だがそうではない。それは約束、つまりほかのものでもありえた取り決めなのである。 演算の順序 $2 + 3 \cdot 4$ はいくつか。ほとんどだれもが $14$ と答える。まずかけ算、それから足し算。しかし数学の中に、この順序を強いるものは何もない。もし約束が「左から右へ」だったら、答えは $20$ になる。私たちの使う規則(累乗、次にかけ算と割り算、最後に足し算とひき算)は、16 世紀から 19 世紀の代数の本の中で少しずつ定着した。いちばんよく出てくる式でかっこを節約できるからである。$3x^2 + 2x + 1$ のような多項式は、ほかの規則では読めたものではない。 アメリカの生徒はこれを PEMDAS、イギリスの生徒は BODMAS と覚える。名前はちがっても約束は同じで、そこには、ときどき SNS に顔を出すすきまがある。 $$6 \div 2(1+2) = \ ?$$規則を文字どおりに当てはめ、かけ算と割り算のあいだでは左から右へ計算する人は、$6 \div 2 = 3$、それから $3 \cdot 3 = 9$ とする。かけ算が記号なしの暗黙のかけ算なので $2(1+2)$ をひとかたまりとして読む人は、$6 \div 6 = 1$ とする。どちらの読み方にも支持者がいて、科学論文の書式規定の中には二つめを好むものもある。大事なのは、どちらが正しいかを決めることではない。この式が書き方として悪いことに気づくことである。数学者は決してこう書かない。$\frac{6}{2}(1+2)$ か $\frac{6}{2(1+2)}$ と書き、疑問は消える。 ふるまいの悪い記号 $-3^2$。 累乗はマイナスの符号より先なので、$-3^2 = -(3^2) = -9$ である。$9$ を得るには $(-3)^2$ と書く。多くの電卓や表計算ソフトはこの約束に従うが、従わないものもある。 $\sin^2 x$。 これは $(\sin x)^2$ を意味する。かっこを一組節約する古い習慣である。ところが $\sin^{-1} x$ は逆関数 $\arcsin x$ を意味し、$\frac{1}{\sin x}$ ではない。同じ記号の上の同じ指数が二つの意味をもつ。第3章で見たとおりである。 $2a$ と $2\tfrac{1}{2}$。 数と文字を並べるとかけ算を意味する。$2a = 2 \cdot a$。帯分数を使う本で数と分数を並べると、足し算を意味する。$2\frac{1}{2} = 2 + \frac{1}{2}$。同じ並べ方で、二つの演算。 $f(x+1)$ と $a(x+1)$。 前者は関数 $f$ の点 $x+1$ での値、後者は積である。かっこの前の文字が関数なのか数なのかは、文脈しか教えてくれない。 コンマとピリオド ブラジルでは $1{,}5$ は一・五で、$1.500$ は千五百である。アメリカではその逆で、$1.5$ が一・五、$1,500$ が千五百である。同じ書き方 $1.000$ が、ある国では千、別の国では一を表す。2003 年に国際度量衡総会は小数点としてコンマとピリオドの両方を認め、千ごとの区切りには細いスペースを使う、$1\,500$ のように書くことを勧めた。数が読み手の国によって変わらないようにするためである。

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船長の年齢:文章題から方程式へ

1970 年代の終わりに、フランス・グルノーブルの数学教育研究所(IREM)の研究者たちが、小学生に奇妙な問題を出した。 船に羊が 26 頭、ヤギが 10 頭いる。船長は何歳か。 この問題には答えがない。問題文のどこにも、だれの年齢も出てこない。それなのに、教育者ステラ・バリュクが著書『船長の年齢』(L’âge du capitaine、1985)で有名にした報告によれば、97 人中 76 人の子どもが数で答えた。ほとんどが $36$、つまり問題文に出てきた二つの数の和である。 隠れた契約 子どもたちはうっかりしていたのではない。学校が口に出さずに教えた規則に、とても論理的に従っていたのである。どの問題にも答えがある、答えは数である、問題文の数はすべて使う、演算はことばが示しているものである。フランスの研究者ギ・ブルソーは、この暗黙の規則の集まりを教授学的契約と呼んだ。契約が文章より重くなると、文章は読まれなくなる。 人を誤らせるキーワード 契約のひとつにキーワードの規則がある。「多い」は足し算、「残り」はひき算、「それぞれ」はかけ算。教科書の多くの問題ではうまくいくので、身にしみつく。しかし文を逆にするだけでよい。 アナはアメを 12 個持っていて、ビアより 4 個多い。ビアはアメを何個持っているか。 「多い」ということばに従う人は足し算をして $16$ と答える。読む人は、ビアのほうが少ないことに気づく。$12 - 4 = 8$ である。記号のレジスターで書くと、問題文は $A = B + 4$、ただし $A = 12$ となる。方程式には「$+$」があるのに、求められている計算はひき算である。ことばが述べているのは量どうしの関係であって、読み手が行うべき演算ではない。 文章から方程式へのこの移行は、第2章で見たデュヴァルの意味での、表現レジスターのあいだの変換である。それは、ことばの順序と記号の順序が一致しないときにこそ難しい。 ポリアの四つの段階 ハンガリーの数学者ジョージ・ポリアは『いかにして問題をとくか』(How to Solve It、1945)で、いまも役に立つ手順をまとめた。 問題を理解する。 未知のものは何か。与えられているものは何か。条件は何か。問題を自分のことばで言えるか。 計画を立てる。 関連する問題を知っているか。量に名前をつけ、条件を方程式として書けるか。 計画を実行する。 計算をし、一歩ずつ確かめる。 ふり返る。 答えは筋が通っているか。単位は正しいか。問われたことに答えているか。 理解していない問いに答えるのは愚かなことである。 — ジョージ・ポリア『いかにして問題をとくか』(1945) 最初の段階があれば、グルノーブルの子どもたちは救われただろう。未知のものはある人の年齢であり、それについて述べているデータはひとつもない。最後の段階でもそうだ。$36$ 歳の船長はありそうな話だが、「この $36$ はどこから来たのか」という問いには答えがない。 練習:逆向きの値引き$20\%$ 値引きしたあと、シャツの値段は 40 レアルである。もとの値段はいくらだったか。「48 レアル」という答えはなぜまちがいなのか。 もとの値段を $p$ とすると、問題文は $0.8\,p = 40$ と言っているので、$p = 50$ である。$48$ という答えはキーワードから来る。「20% 値引き」は $40$ の $20\%$ をいじることを思わせる。しかしこの $20\%$ はもとの値段の $20\%$ であって、値引き後の値段のものではない。確かめると、$50$ の $20\%$ は $10$ で、$50 - 10 = 40$ である。

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ひとつの文に二つの言語:数学のレジスター

日本語で書かれた数学の文章は、同時に二つの言語で書かれている。ひとつは記号の言語、$=$、$+$、$x$、$\sqrt{\ }$ である。もうひとつは日本語に見えるが、そのままの日本語ではない。ふだんのことばを数学者どうしで取り決めた意味で使っていて、二つが同じ文の中で混ざり合う。 イギリスの言語学者マイケル・ハリデーは 1970 年代に、この言語の変種を数学のレジスターと呼んだ。レジスターとは、ある活動に結びついた話し方のことで、台所のことば(「さっと炒める」「とろみをつける」)やサッカーのことば(「オフサイド」「セットプレー」)がそれにあたる。数学のレジスターには、もうひとつ厄介な点がある。そのことばの多くがふだんのことばとして別の意味ですでに存在し、意味が変わるときに読み手には知らされないのである。 意味の変わることば イギリスの数学教育学者デイヴィッド・ピムは、著書『数学を話す』(Speaking Mathematically、1987)で、そうした例をたくさん集めた。日本語でも次のようなものがある。 積はかけ算の結果であって、積もったものではない。 差はひき算の結果である。「7 と 3 の差は?」が求めているのは $4$ であって、「どちらも奇数」ではない。 体積は空間の大きさをはかる量である。 根は、第1章で見たように正方形の辺であり、多項式を 0 にする値でもある。 正規、有理、実は、ふつう、筋が通っている、本当の、という意味ではない。 平均には算術平均も幾何平均も加重平均もある。新聞に出てくるのは、ほとんどいつもそのうちのひとつだ。 いちばんの危険は名詞にはない。名詞なら用語集で片づく。危険は小さなことばにある。 小さなことば 「または」。 ふだん「コーヒーまたは紅茶?」はひとつを選ぶことを期待している。数学では、「$x > 0$ または $y > 0$」は両方が正のときにも成り立つ。数学の「または」は包含的である。排他的な「または」は、「どちらか一方だけで、両方ではない」とはっきり言わなければならない。 「ならば」。 「雨が降ったら行かない」は、ふつう「降らなければ行く」と受けとられる。数学では、「$n$ が 4 の倍数ならば、$n$ は偶数である」は、4 の倍数でない数については何も言っていない。$6$ は偶数だが 4 の倍数ではなく、それでもこの文は正しい。両方を言うために、数学には別の言い方「のとき、かつそのときに限り」と、別の記号、第4章の $\Leftrightarrow$ がある。 「ある」。 「ある生徒が休んだ」は、会話では全員ではないことをほのめかす。数学では、「ある素数は偶数である」は「少なくともひとつ」という意味でしかなく、全部がそうであっても正しいままである。 「何倍多い」。 「ペドロはアナより三倍多くシールを持っている。」アナが $10$ 枚持っているとき、ペドロは $30$ 枚(アナの三倍)なのか、$40$ 枚(アナの分に、その三倍を足したもの)なのか。辞書や文章作法の本でも意見が分かれる。数学のレジスターは、その言い方を三倍に置きかえて疑いを避ける。 足す「と」と、求める「かつ」 「二と三で五」の「と」は足し算である。「$x > 2$ かつ $x < 5$」では、それは二重の要求である。二つの条件が同時に成り立ち、集合は大きくではなく小さくなる。ポルトガル語では両方を同じ接続詞 e で言い、同じことばが正反対の操作を命じる。学ぶ人は、そのどちらが働いているのかを文脈から見ぬかなければならない。 レジスターを身につける 数学のレジスターは、定義の一覧で命令して身につくものではない。どの言語とも同じように、使われているのを聞き、話し、直されることで身につく。だから $\forall x \in \mathbb{R},\ x^2 \geq 0$ のような文を生徒に声に出して読ませる(「すべての実数 $x$ について、$x$ の二乗は 0 以上である」)のは、時間のむだではない。それはひとつの言語からもうひとつの言語への移しかえであり、読みがどこでつまずいているかを見せてくれる。

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計算する前に読む:ボグダノフ=ベリスキーの絵

1895 年、ロシアの画家ニコライ・ボグダノフ=ベリスキーは『暗算。ラチンスキーの国民学校にて』という絵を発表した。村の教室で、はだしの農民の少年たちが黒板を見つめている。あごに手をあてている子もいれば、先生の耳もとでささやいている子もいる。黒板にはこう書かれている。 $$\frac{10^2 + 11^2 + 12^2 + 13^2 + 14^2}{365}.$$ ニコライ・ボグダノフ=ベリスキー『暗算。ラチンスキーの国民学校にて』(1895)。モスクワ、トレチャコフ美術館。Nikolai Bogdanov-Belsky · ウィキメディア・コモンズ · パブリックドメイン この先生は実在した。セルゲイ・ラチンスキーはモスクワ大学の植物学の教授だったが、その経歴を捨て、自分の生まれたタテヴォ村で農民の子どもたちを教えた。とても大きく見えるのに近道のある計算を出すのが好きだった。ボグダノフ=ベリスキー自身も、かつて彼の生徒だった。 しなくてよい計算 読む順番に計算する人は、五つの数を二乗し、三けたの結果を足し、$365$ で割らなければならない。できるが、長い。先に見る人は、別のことに気づく。 $$10^2 + 11^2 + 12^2 = 100 + 121 + 144 = 365, \qquad 13^2 + 14^2 = 169 + 196 = 365.$$分子は $365 + 365$ で、答えは $2$ である。分母の $365$ がヒントだった。分子がその大きさのかたまりに分かれるはずだと知らせていたのである。 二つの道のちがいは、計算の腕前にあるのではない。読み方にある。式には形がある。どんな計算をする前にも、それが分数であること、分子が五つの平方の和であること、数が連続していることが見てとれる。第2章は、どの式にも木が隠れていることを示した。よく読むとは、木に登る前に木を見ることである。 二つの顔をもつ記号 ラチンスキーの少年たちにとって、$13^2$ は指示(「13 に 13 をかけよ」)であると同時に、もの(ほかの数に足すことのできる数 $169$)でもある。数学教育学者のエディ・グレイとデイヴィッド・トールは 1994 年の論文で、この二重の役割をプロセプト(procept)、つまり過程(process)と概念(concept)を合わせたものと呼んだ。同じ記号 $3+4$ は「3 と 4 を足せ」とも、数 $7$ とも読める。$\frac{a}{b}$ は「割れ」とも、ほかの分数と比べられるひとつの分数とも読める。

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数える、言う、書く

残っているもっとも古い書かれた数学は、刻み目のついた骨である。イシャンゴの骨は 1950 年に、コンゴ民主共和国とウガンダの国境にあるエドワード湖のほとりで見つかった。およそ二万年前のもので、三列に分かれた平行な刻み目の群れが彫られている。それが何を数えていたのか、確かなことはだれにも分からない。しかし考え方ははっきりしている。ひとつのものにひとつの印である。 イシャンゴの骨。柄にそって刻み目の群れが彫られている。ブリュッセル自然科学博物館。Joeykentin · ウィキメディア・コモンズ · CC BY-SA 4.0 第2章のことばで言えば、刻み目はイコンである。五本の刻み目は五匹の羊に似ている。少なくとも数において。だからこの書き方は教える必要がない。見ればわかる。代償は長さだ。千を書くには、千本の刻み目がいる。 ひとつの数の三つの表し方 いま私たちが書く数は、刻み目の正反対である。数字 $3$ は三つのものに似ていないし、$304$ の中の $3$ が三百を表すのは、第1章で見たように、それが三番目の位にあるからにすぎない。数えることを学ぶ子どもは、たがいに少しも似ていない三つの表し方を結びつけなければならない。 見たり触ったりできる量 話しことばの数詞、ポルトガル語なら「トレゼントス・イ・クアトロ」(三百と四) 書かれた数字、$304$ 数詞と数字は文法がちがう。話しことばはかたまりを足す。三百、と、四。書きことばは数字を位に置く。$0$ は十の位を占めるが、ポルトガル語や英語の話しことばはそれに触れもしない。子どもが聞いたとおりにかたまりごとに書くと、$3004$ になる。「三百」の $300$ のあとに「四」の $4$ が続くのである。 この対話型の図を使うには JavaScript を有効にしてください。議論の全体は本文にあります。 この誤りには名前があり、転記の誤りと呼ばれて、多くの国で研究されてきた。それは系統的である。話しことばが空いた位を隠す数にこそ現れ、子どもが「ひとつの位にはひとつの数字、ただひとつだけ」と理解すると、ほとんど消えてしまう。不注意ではない。話しことばには通用し、書きことばには通用しない規則を、忠実に当てはめた結果なのである。 助ける言語とじゃまをする言語 ポルトガル語では、十一から十五までの名前は不透明である。onze は「十と一」とは言わない。英語の eleven や twelve はさらに不透明だ。フランス語では $97$ を quatre-vingt-dix-sept、「四つの二十、十、七」と言う。ひとつの語の中に計算がまるごと入っている。二十ずつ数えた時代の名残である。 中国語と日本語では、名前が書き方にそっている。十一は「十一」、九十七は「九十七」。位取りの構造がことばの中にある。比較研究の中には、たとえば 1980 年代の終わりにイリーン・ミウラらが行ったもののように、東アジアの子どもが同じ年齢のアメリカの子どもより早く、ブロックで十の位と一の位を表せるようになることを見いだしたものがある。ちがいは言語だけによるのではない(学校や家庭の影響も大きい)。それでも、話しことばの数詞が数字を読むのを助けもすれば、じゃまもすることがわかる。 声に出るゼロ 中国語では $1504$ を「一千五百零四」、yī qiān wǔ bǎi líng sì と読む。「千、五百、ゼロ、四」である。言語が空いた位を発音する。ポルトガル語では mil quinhentos e quatro、「千五百と四」と言い、十の位のゼロは話しことばから消える。子どもがつまずくのは、まさにそこである。 練習:誤りを読む先生がポルトガル語で quinhentos e sete(「五百と七」)と読み上げると、ある子どもは $5007$ と書き、dois mil e dez(「二千と十」)と読み上げると $200010$ と書く。この子はどんな規則に従っているのだろうか。 話しことばのかたまりを、それぞれひとつの完全な数として書き、それらをつなげている。$500$ のあとに $7$ で $5007$、$2000$ のあとに $10$ で $200010$ である。規則は一貫しているので、誤りはくり返される。欠けているのは、$7$ が $500$ の横に並ぶのではなく、$500$ の一の位を占めるという考えだ。$500+7=507$、同じように $2000+10=2010$ である。