Hero Image
アルキメデスの生涯

年表 前 287 頃シラクサに、天文学者ペイディアスの息子として生まれる。 前 270 頃ヒエロン二世がシラクサの支配者となり、のちに王を名のる。 前 250 頃このころ、アレクサンドリアのサモスのコノンとドシテオスに手紙を書き、自分の成果を送る。 前 240 頃アレクサンドリアのエラトステネスに、のちに『方法』として知られる手紙を書く。 前 215ヒエロンが死ぬ。シラクサはカルタゴと結んでローマに対抗する。 前 214ローマの将軍マルケルスがシラクサの包囲を始める。アルキメデスの機械が町を守る。 前 212シラクサが陥落する。アルキメデスはローマの兵士に殺される。 前 75シチリアに赴任したローマの政務官キケロが、彼の墓を見つけなおす。 シチリアのギリシア都市 アルキメデスは前 287 年ごろ、シチリアの東海岸にあるシラクサに生まれた。この年は、十二世紀のビザンツの著述家ヨハネス・ツェツェスが、彼は 75 歳で死んだと書いていることによる。当時のシラクサはギリシア世界でも最大級の都市で、二つの港と、古い町の中心にある城塞の島オルティージャをもっていた。 海から見たオルティージャ島。古代シラクサの中心をなしていた島である。Andrea Schaffer · Wikimedia Commons · CC BY 2.0 彼の家族について知られていることは、ほとんどすべて彼自身の一文による。『砂粒を数える者』で太陽の大きさの見積もりを引くとき、アルキメデスは天文学者である「わが父ペイディアス」に触れている。プルタルコスは、彼が五十年以上シラクサを治めたヒエロン二世の親族で友人だったと述べている。 アレクサンドリアへの手紙 ギリシア科学の大きな中心は、ムセイオンと図書館のあるエジプトのアレクサンドリアだった。アルキメデスは若いころそこで学んだのだろう。確かなのは、シラクサに戻ってからもアレクサンドリアの数学者たちと連絡をとりつづけたことである。彼の本の多くは手紙として始まり、宛先は天文学者サモスのコノン、コノンの死後はその弟子ドシテオス、そして地球の周の長さを測った地理学者キュレネのエラトステネスだった。 手紙からは彼の気質がうかがえる。アルキメデスは同僚たちに、証明をつけずに定理の主張だけを送り、彼ら自身に証明させようとした。ある手紙では、なんでも自分で発見したと言いはる者の正体をあばくために、わざと二つのまちがった結果を混ぜておいたと打ち明けている。 思索するアルキメデス。ドメニコ・フェッティが 1620 年ごろに描いた。信頼できる古代の肖像は残っておらず、アルキメデスの姿はすべて想像によるものである。Domenico Fetti · Wikimedia Commons · パブリックドメイン 王の技術者 ヒエロンにとって、アルキメデスは技術者でもあった。金の冠と「エウレカ」の叫びの話は宮廷が舞台である。プルタルコスによれば、与えられた力でどんな重さのものでも動かせると言ったアルキメデスは、王にそれを証明してみせるよう求められた。彼は大勢の人手がなければ海に浮かべられない新造の貨物船を選び、乗客と荷を満載させた。そして離れたところに座り、滑車の仕掛けの端を手で引いて、船をまるで水の上にあるかのように静かにすべらせた。てこの法則の実演である。 包囲 ヒエロンはローマとカルタゴの戦争のさなか、前 215 年に死んだ。後継者はカルタゴ側につき、前 214 年、ローマの将軍マルクス・クラウディウス・マルケルスが陸と海からシラクサを攻めた。古代の歴史家ポリュビオス、リウィウス、プルタルコスは、アルキメデスの機械を前にしたローマ兵の驚きを書いている。届く距離のちがう投石機、石を落とす起重機、そして船首をつかんで持ち上げ、急に落とす鉤爪である。プルタルコスによれば、兵士たちは城壁の上に綱や梁が見えただけで逃げ出したという。町が落ちたのは前 212 年、祭りのあいだの油断によってだった。 図形を前にした死 マルケルスはアルキメデスを殺さないよう命じていたという。だが町の略奪のなかで、ひとりの兵士が彼を見つけた。プルタルコスはいくつかの話を伝えている。もっとも有名なものでは、アルキメデスは問題に没頭していて敵が入ってきたことに気づかず、証明を終えるまで待ってくれと兵士に頼んだ。兵士は腹を立てて彼を殺したという。のちにラテン語の著述家たちは、「私の円を乱すな」という言葉を彼の口に語らせた。 アルキメデスとローマの兵士。古代風のモザイクで、長いあいだローマ時代のものと考えられていたが、実は十八世紀の作品である。作者不詳 · Wikimedia Commons · パブリックドメイン 見つけなおされた墓 アルキメデスは、自分の墓に円柱のなかの球と、両者の体積の比を刻んでほしいと頼んでいた。彼がもっとも誇りにした結果で、球と円柱で語る。前 75 年、シチリアの財務官だったキケロは、シラクサの人びと自身が忘れていたこの墓を探した。町の門のひとつの近くで、いばらにおおわれた墓を見つけ、球と円柱が刻まれた小さな柱でそれと気づいた。彼は墓をきれいにさせた。その後、墓はふたたび失われた。いまシラクサで「アルキメデスの墓」と呼ばれている遺跡は、ずっと後のローマ時代の墓である。 練習:紀元前の年アルキメデスは前 287 年ごろに生まれ、前 212 年に死んだ。何年生きたか。また、彼の死から、前 75 年のキケロの墓の訪問までは何年か。 紀元前の年は、時がたつほど数が小さくなるので、引き算を逆にする。$287 - 212 = 75$ 年で、ツェツェスの記述と一致する。死からキケロまでは $212 - 75 = 137$ 年である。(紀元 0 年はないので、注意が必要なのは、期間が前 1 年から後 1 年をまたぐときだけである。)

Hero Image
エウレカ:王の冠とアルキメデスの原理

アルキメデスについてのもっとも有名な話は、彼自身のどの本にも出てこない。それを語ったのは二世紀後のローマの建築家ウィトルウィウスで、その論考『建築について』の第 IX 書においてである。 ヒエロンの冠 ヒエロン王は神々にささげる冠を注文し、金細工師に決まった量の金を渡した。冠ができあがると、その重さは渡した金と同じだった。ところが、金細工師が金の一部をくすね、そのかわりに同じ質量の銀を入れたといううわさが広まった。ヒエロンはアルキメデスに、冠を傷つけずに真相を明らかにするよう頼んだ。 ウィトルウィウスによれば、アルキメデスはこの問題を考えながら、水をいっぱいに張った浴槽に入り、体が沈むにつれて水があふれるのを見た。すぐにどうすればよいかを悟った彼は、裸のまま家へ駆けもどりながら、ギリシア語で heúreka, heúreka、「見つけた、見つけた」と叫んだという。 ウィトルウィウスの方法 ウィトルウィウスの話では、考え方は体積をくらべることである。銀は金より密度が小さく、同じ質量の銀はほぼ倍の場所をとる。冠に銀が混ざっていれば、同じ質量の純金の塊より体積が大きくなる。形の不規則なものの体積を測るには、縁まで水を満たした容器に沈め、あふれた水を測ればよい。 アルキメデスは冠と同じ質量の純金の塊、次に銀の塊、最後に冠そのものを沈めたという。冠は純金よりも多くの水をあふれさせた。金細工師はやはりごまかしていたのである。 なぜほとんどうまくいかないのか 1586 年、若きガリレオ・ガリレイは短い文章『小さな天秤』を書いて問題を指摘した。体積の差はごくわずかで、当時の容器であふれた水を十分正確に測るのはほとんど不可能だというのである。下の練習で計算してみよう。ガリレオは、アルキメデスは自分が実際に証明した結果にもとづく、はるかに感度のよい方法を使ったのだろうと考えた。 アルキメデスの原理 『浮体について』でアルキメデスは、液体に沈めた物体は押しのけた液体の重さに等しい力で上に押されることを証明している。液体より密度の大きい物体は沈むが、軽くなったように見える。液体より密度の小さい物体は浮き、押しのけた液体の重さが物体全体の重さに等しくなるだけ沈む。 ガリレオの提案した方法は天秤を使う。一方の皿に冠を、もう一方に同じ質量の純金の塊をつるす。空気中では天秤はつりあっている。次に両方を水に沈める。冠の体積のほうが大きければ、冠は多くの水を押しのけ、大きな浮力を受けて上がる。天秤は純金のほうへ傾くのである。浮力の差は天秤に直接はたらき、ふつうの天秤は水位よりはるかに感度がよい。 現代の言葉でいえば、質量 $m$、体積 $V$ の物体を水(密度 $\rho_a = 1$ g/cm³)に沈めたときの見かけの重さは $$m - \rho_a V$$である。 船のように浮く 『浮体について』は浮力の話にとどまらない。第二巻でアルキメデスは、船体に似た形である回転放物体が、どんな姿勢なら安定して浮き、どんな姿勢なら転覆するかを調べている。船の安定性についての最初の数学的研究であり、造船技術者がこの問題をこれほど深く扱うのは十八世紀になってからである。この論考のギリシア語の写本として知られている唯一のものは、アルキメデスのパリンプセストのなかにある。 練習:冠の体積冠の質量は 1000 g である。金の密度は 19.3 g/cm³、銀は 10.5 g/cm³ とする。純金の冠の体積はいくらか。金 700 g と銀 300 g の冠ではどうか。容器の口が直径 20 cm の円なら、水面はどれだけ余分に上がるか。 純金では $\frac{1000}{19.3} \approx 51.8$ cm³、混ぜものの冠では $\frac{700}{19.3} + \frac{300}{10.5} \approx 36.3 + 28.6 = 64.8$ cm³ で、差はおよそ 13 cm³ である。容器の口の面積は $\pi \cdot 10^2 \approx 314$ cm² だから、水面は $\frac{13}{314} \approx 0.04$ cm、つまり 0.5 mm 足らずしか余分に上がらない。ガリレオがウィトルウィウスの話を疑ったのはこのためである。

Hero Image
てこの法則

てこはアルキメデスよりずっと前から、石を持ち上げたり、井戸から水をくんだり、品物を量ったりするのに使われていた。アルキメデスが新しくしたのは、てこを定理にしたことである。『平面の釣り合いについて』で、彼は「等しい重さのものは等しい距離でつりあう」といった少数の簡単な公理から出発し、エウクレイデスの『原論』のやり方で一般的な法則を導いている。 法則 量は、通約可能であれ通約不可能であれ、その重さに反比例する距離においてつりあう。 — アルキメデス『平面の釣り合いについて』第 I 巻、命題 6 と 7 重さ $P_1$ が支点から距離 $d_1$ に、重さ $P_2$ が反対側の距離 $d_2$ にあるとき、てこがつりあうのは $$\frac{P_1}{P_2} = \frac{d_2}{d_1} \quad\Longleftrightarrow\quad P_1\,d_1 = P_2\,d_2$$のときである。支点から遠い小さなおもりが、支点に近い大きなおもりとつりあう。今日モーメント、あるいはトルクと呼ぶ積 $P \cdot d$ が、両側で等しくなければならないのである。 この対話型の図を使うには JavaScript を有効にしてください。議論の全体は本文にあります。 証明の考え方 いちばん簡単な場合が議論の精神を示している。左側の支点から距離 1 のところに重さ 2 単位のおもりが、右側の距離 2 のところに重さ 1 単位のおもりがあるとする。重さ 2 のおもりを、ちょうど支点の上に一つ、左側の距離 2 のところに一つという、二つの単位のおもりに置きかえる。二つの重心は距離 1 のままだから、公理のひとつによって、つりあいは変わらない。ところが今度は、$-2$、$0$、$+2$ の位置に等しいおもりが三つ並んでいる。支点について対称な並びだから、明らかにつりあう。アルキメデスはこの推論を、おもりを等しい単位に分けることで通約可能な任意の重さに広げ、さらに背理法で通約不可能な重さにまで広げた。 重心 同じ論考は、平面図形の重心、つまり図形を針の先にのせたときにつりあう点の求め方も教えている。たとえばアルキメデスは、三角形の重心が中線の交点で、各頂点から三分の二のところにあることを示した。図形全体を、その重さが一点に集まっているかのように扱うというこの考えが、彼が最大の公式を発見した方法の鍵になる。 てこで地球を動かすアルキメデス。ロンドンの『メカニクス・マガジン』1824 年の版画。Mechanics Magazine · Wikimedia Commons · パブリックドメイン 立つ場所を与えよ 「私に立つ場所を与えよ、そうすれば地球を動かしてみせよう」という言葉を書きとめたのは、アルキメデスから五百年以上のちの四世紀、アレクサンドリアのパップスで、シラクサの方言であるドーリス方言の形で伝えている。プルタルコスは実際的な話を伝えている。アルキメデスは滑車とてこの力をヒエロンに示すため、荷を満載した船をひとりで海に浮かべたというのである。この言葉はわざと誇張されている。次の練習がその理由を示す。

Hero Image
円の計測と円周率 π

どの円も円周と直径の比が同じであることは、アルキメデス以前から知られていた。はっきりしなかったのは、今日 $\pi$ と呼ぶその比の値である。バビロニア人はときに $3\frac{1}{8}$ を使い、エジプト人は $3.16$ に近い値を使っていた。短い論考『円の計測』で、アルキメデスは二つのことをした。円の面積を円周と結びつけ、そして $\pi$ を望むだけの精度で計算する方法を示したのである。 円の面積 最初の命題は、円の面積は、半径 $r$ と円周 $C$ を直角をはさむ二辺とする直角三角形の面積に等しいと述べる。 $$A = \frac{1}{2}\,r\,C.$$円をピザのようにごく細い扇形に切ると、どの一切れも高さ $r$ のほぼ三角形になる、というのが考え方である。アルキメデスは取りつくし法によって厳密な証明を与え、面積がその三角形より大きくも小さくもありえないことを示した。$C = 2\pi r$ だから、公式はおなじみの $A = \pi r^2$ になる。 二つの多角形にはさむ $\pi$ を見積もるため、アルキメデスは円に内接する正多角形と外接する正多角形を描いた。内側の多角形の周は円周より短く、外側の多角形の周は円周より長い。直径で割れば、$\pi$ は計算できる二つの数のあいだにはさまれる。 彼は正六角形から始めた。内接正六角形の周は $6r$、つまり直径 $3$ 本分で、外接正六角形の周は $4\sqrt{3}\,r \approx 6.93\,r$ である。それから辺の数を 12、24、48、そして最後に 96 と倍にしていった。各段階で、$n$ 角形と $2n$ 角形のあいだの幾何学的な関係を使った。 この対話型の図を使うには JavaScript を有効にしてください。議論の全体は本文にあります。 最終的な結果は $$3 + \frac{10}{71} < \pi < 3 + \frac{1}{7}, \qquad \text{すなわち} \qquad 3.1408 < \pi < 3.1429$$だった。上の限界 $\frac{22}{7}$ はとても有名になり、いまも学校で $\pi$ の近似値として使われている。

Hero Image
放物線の求積

ギリシア人にとって図形を「求積する」とは、同じ面積をもつ正方形か、ほかの直線で囲まれた図形を見つけることだった。円の求積は不可能な問題の代表である。アルキメデスは曲線で囲まれた図形の求積に成功した。放物線の弓形、つまり放物線と一本の弦にはさまれた領域である。 直線と直角円錐の切り口とで囲まれたどの弓形も、その弓形と同じ底辺と同じ高さをもつ三角形の三分の四である。 — アルキメデス『放物線の求積』、ドシテオスへの手紙 「直角円錐の切り口」とは、アルキメデスが放物線につけていた名前である。この本はコノンの死後にドシテオスにささげられた。アルキメデスは最初にこの結果をコノンに見せたのだという。 三角形のなかの三角形 弦を引き、弧の上で接線が弦に平行になる点をとる。三つの点は面積 $T$ の三角形をつくり、弓形の大部分を占める。三角形の辺と曲線のあいだに、小さな領域が二つ残る。それぞれで同じことをする。三つ目の頂点が放物線の上にある新しい三角形を描くのである。さらに小さな領域が四つ残り、以下同様に続く。 アルキメデスが発見したのは、新しい三角形の組は、合わせてもとの三角形の面積の四分の一になるということだった。したがって第一段階で $T$、第二段階で $\frac{T}{4}$、第三段階で $\frac{T}{16}$ が得られ、面積全体は $$T + \frac{T}{4} + \frac{T}{16} + \frac{T}{64} + \cdots$$となる。 この対話型の図を使うには JavaScript を有効にしてください。議論の全体は本文にあります。 無限に多くの項を足す アルキメデスは「無限の和」とは言わず、無限を注意深く避けた。そのかわりに、有限の和についての事実を証明した。項の数がいくつであっても $$1 + \frac{1}{4} + \frac{1}{16} + \cdots + \frac{1}{4^n} + \frac{1}{3}\cdot\frac{1}{4^n} = \frac{4}{3}.$$つまり $\frac{4}{3}$ に届くまでに足りない分は、いつも最後の項の三分の一で、それはいくらでも小さくできる。そのうえで二重の背理法により、弓形の面積は $\frac{4}{3}T$ より大きくも小さくもありえないことを示した。これがエウドクソスから受けついだ取りつくし法であり、極限の概念の直接の祖先である。 微積分で確かめる 今日の道具を使えば、計算はすぐにできる。放物線 $y = 1 - x^2$ と、$x$ 軸上の $-1$ から $1$ までの弦について $$\int_{-1}^{1} (1 - x^2)\,dx = \left[x - \frac{x^3}{3}\right]_{-1}^{1} = \frac{4}{3}.$$内接三角形は底辺 2、高さ 1 で、面積は $T = 1$ である。比はちょうど $\frac{4}{3}$ で、アルキメデスがニュートンとライプニッツより十九世紀も前に証明したとおりである。

Hero Image
球と円柱

ギリシアの幾何学者たちは、角柱、角錐、円柱、円錐の体積を計算できた。球だけが手ごわかった。全二巻の論考『球と円柱について』で、アルキメデスはこの問題を解き、驚くほど簡単な関係を見いだした。 定理 赤道のように球の中心を通る円を大円と呼ぶ。アルキメデスは次のことを証明した。 球の表面積は大円の面積の四倍である。$S = 4\pi r^2$。 球の体積は、大円を底面とし半径を高さとする円錐の体積の四倍である。$V = 4 \cdot \frac{1}{3}\pi r^2 \cdot r = \frac{4}{3}\pi r^3$。 そしてそこから、彼をもっとも喜ばせた帰結を引き出した。球をちょうど包む、半径 $r$、高さ $2r$ の円柱を考える。その体積は $\pi r^2 \cdot 2r = 2\pi r^3$、二つのふたを含めた表面積は $2\pi r \cdot 2r + 2\pi r^2 = 6\pi r^2$ である。したがって $$\frac{V_{\text{球}}}{V_{\text{円柱}}} = \frac{\frac{4}{3}\pi r^3}{2\pi r^3} = \frac{2}{3}, \qquad \frac{S_{\text{球}}}{S_{\text{円柱}}} = \frac{4\pi r^2}{6\pi r^2} = \frac{2}{3}.$$球の体積も表面積も、円柱の三分の二なのである。 『球と円柱について』のラテン語写本のページ、十三世紀。アルキメデスの著作がギリシア語からラテン語に訳された時代のものである。ラテン語写本、1270 年頃 · Wikimedia Commons · パブリックドメイン 缶のラベルのような表面 表面積の結果を見てとる方法があり、アルキメデス自身もそれを知っていた。球と円柱を、ごく近い二つの水平な平面で切る。そのあいだの球の帯は、円柱の帯と同じ面積をもつ。球が細いところでは帯がより傾いて、そのぶん幅が広くなり、二つの効果がちょうど打ち消しあうのである。すべての帯を足しあわせると、球の表面積は円柱の側面積 $2\pi r \cdot 2r = 4\pi r^2$ に等しくなる。

Hero Image
『方法』とパリンプセスト

アルキメデスの本には完璧な証明が書かれているが、どうやって結果にたどり着いたかは書かれていない。何世紀ものあいだ、数学者たちは彼に秘密の方法があったのではないかと疑ってきた。その疑いは正しく、方法はもっとも思いがけない場所で見つかった。 エラトステネスへの手紙 あることがらは、まず力学的な方法によって私に明らかになったが、そのあとで幾何学によって証明されねばならなかった。この方法による探究は証明を与えないからである。しかし、この方法によって問題についていくらかの知識を得てからのほうが、何も知らないときより証明を見つけるのはずっとやさしい。 — アルキメデス『方法』、エラトステネスへの手紙 『力学的定理の方法』と呼ばれる論考は、地理学者キュレネのエラトステネスにあてた手紙である。そのなかでアルキメデスは自分のやり方を明かしている。図形を無限に多くのごく薄い切片からできているものと考え、それらをてこの上ではかり、既知の図形の切片と一枚ずつくらべるのである。 球をはかる いちばん美しい例は球である。半径 $r$ の球と、底面の半径 $2r$、高さ $2r$ の円錐と円柱を、軸がてこの腕にそうように置く。支点から距離 $x$ のところで、すべてを腕に垂直な平面で切る。少し幾何学を使うと、球の切り口の面積は $\pi\left(2rx - x^2\right)$、円錐は $\pi x^2$、円柱は $\pi (2r)^2 = 4\pi r^2$ である。したがって $$\text{球の切り口} + \text{円錐の切り口} = \pi \cdot 2rx.$$アルキメデスは球と円錐の切り口を、てこの反対側の支点から距離 $2r$ のところへ移し、円柱の切り口は距離 $x$ のもとの場所に残す。モーメントは等しい。 $$2r \cdot \pi \cdot 2rx = x \cdot 4\pi r^2.$$これがどの切片についても成り立つので、距離 $2r$ につるした球と円錐の全体は、重心が距離 $r$ にある円柱全体とつりあう。てこの法則により $$2r\,(V_{\text{球}} + V_{\text{円錐}}) = r\,V_{\text{円柱}} \quad\Longrightarrow\quad V_{\text{球}} = \frac{1}{2}\cdot 8\pi r^3 - \frac{8}{3}\pi r^3 = \frac{4}{3}\pi r^3.$$これはまさに、彼がのちに球と円柱で厳密に証明する体積である。無限に多くの切片を足しあわせることは積分法の中心的な考えで、ニュートンとライプニッツより十八世紀も前のことだった。 祈祷書 950 年ごろ、コンスタンティノープルの写字生が、アルキメデスのいくつかの著作を羊皮紙に書き写した。1229 年、ある修道士が祈祷書をつくるのに羊皮紙を必要とした。彼は写本をばらし、インクを削りとり、紙葉を半分に切り、向きを変えて、その上に祈りを書いた。このように再利用された写本をパリンプセストという。

Hero Image
アルキメデスの螺旋

やはりドシテオスにささげられた『螺旋について』で、アルキメデスは運動によって定義される新しい曲線を調べている。 平面上の直線が、固定された一方の端のまわりを一様な速さで回転して出発点の位置にもどり、同時に一点が固定された端から出発して直線にそって一様な速さで動くならば、その点は平面上に螺旋をえがく。 — アルキメデス『螺旋について』、定義 方程式 極座標では、点から中心までの距離 $r$ は、直線が回った角 $\theta$ と同じ割合で増える。 $$r = a\,\theta.$$一回転するごとに半径は同じだけ、$2\pi a$ ずつ増えるので、続く巻きは等しい間隔で並ぶ。レコード盤の溝や、地面に巻いたホースのようにである。 円の三分の一 アルキメデスは、最初の一回転のあいだに半径がはく面積を計算した。手法はここでも取りつくし法で、一回転を多くの細い扇形に分け、曲線の内側のものと外側のものを足しあわせる。現代の記法では、角 $d\theta$、半径 $r$ の扇形の面積は $\frac{1}{2}r^2\,d\theta$ だから $$A = \int_0^{2\pi} \frac{1}{2}(a\theta)^2\,d\theta = \frac{a^2}{2}\cdot\frac{(2\pi)^3}{3} = \frac{4}{3}\pi^3 a^2.$$最初の一回転の終わりの半径 $R = 2\pi a$ を半径とする円の面積は $\pi R^2 = 4\pi^3 a^2$ である。螺旋の面積はそのちょうど三分の一になる。 $$\frac{A}{\pi R^2} = \frac{\frac{4}{3}\pi^3 a^2}{4\pi^3 a^2} = \frac{1}{3}.$$そこにたどり着くために、アルキメデスは平方の和 $1^2 + 2^2 + \cdots + n^2$ についての公式を必要とした。それは、この和が $\frac{n^3}{3}$ と $\frac{(n+1)^3}{3}$ のあいだにあると言うのと同じことである。微積分で $\int x^2\,dx = \frac{x^3}{3}$ を与えるのも、この和である。 この対話型の図を使うには JavaScript を有効にしてください。議論の全体は本文にあります。

Hero Image
砂粒を数える者

ゲロン王よ、砂の数は無限だと考える人びとがいます。私はあなたに、私が名づけた数のなかには、大地を満たす砂の数ばかりでなく、宇宙を満たす砂の数をも超えるものがあることを示そうと思います。 — アルキメデス『砂粒を数える者』、ゲロン王への手紙 『砂粒を数える者』はヒエロン王の息子ゲロンにあてた手紙で、アルキメデスの本のなかでただひとつ、数学者でない読者のために書かれたものである。問題は、宇宙全体を満たすのに必要な砂粒の数より大きな数が存在することを証明することだった。 名前のない数 難しいのは計算ではなく、名づけることだった。ギリシアの記数法はアルファベットの文字を使い、実際にはミュリアス、つまり 10 000 までしか届かなかった。「ミュリアスのミュリアス」すなわち $10^8$ は、もう途方もない数だった。アルキメデスはその先へ進むことを提案した。 $10^8$ までの数を第一位とする。 $10^8$ を新しい単位として、$10^8 \cdot 10^8 = 10^{16}$ までの数を第二位とする。 以下同様にして第 $10^8$ 位まで進む。それは $\left(10^8\right)^{10^8} = 10^{800\,000\,000}$ で終わる。 これらすべての位が第一周期をつくる。アルキメデスはさらに周期を重ね、$10^{8 \cdot 10^{16}}$ にまで達した。要するに、底のべきを階段として使うという考えであり、科学的記数法の背後にあるのと同じ考えである。 宇宙の大きさ 宇宙を満たすには、その大きさを知らなければならない。アルキメデスは当時の天文学者が唱えたうちでもっとも大きな宇宙を選んだ。太陽を中心に置き、地球がそのまわりを回るとしたサモスのアリスタルコスの宇宙である。このモデルでは、一年を通じて恒星の見かけの位置のずれがまったく感じられないほど、恒星は遠くになければならなかった。 コペルニクス以前の太陽中心説 この問題についてのアリスタルコスの本は失われた。太陽を中心とする彼のモデルについて私たちが知っていることは、おもに『砂粒を数える者』のこの一節による。アルキメデスはここで、この仮説を最悪の場合として使うために要約しているのである。十八世紀のち、コペルニクスはアリスタルコスの考えを知っており、『天球の回転について』の手稿で彼に触れてさえいたが、その一節は印刷版では削られた。 それからアルキメデスは、いつも安全な側に大きく見積もりながら計算した。ケシの種一粒に砂粒がいくつ入るか、指の幅にケシの種がいくつ並ぶか、一スタディオン(およそ 180 m)に指の幅がいくつあるか、宇宙の直径に何スタディオンあるか。すべてを掛けあわせて、アリスタルコスの宇宙には $$10^{63} \text{ 粒}$$より少ない砂しか入らないと結論した。これは第一周期の第八位の数で、彼が考えだした体系の限界にはまだほど遠い。 なぜ王がそれを知りたがるのか この本は無限そのものについての授業である。多くの人は「とても大きい」と「無限」を混同していた。アルキメデスは、想像もつかないように見える量にも数があり、数学はそれに名前をつけ、それを超えることができると示している。同時にこの本は、太陽、月、地球の大きさ、さらにはアルキメデス自身による太陽の見かけの直径の測定など、当時の天文学の知識を集めてもいる。 練習:ミュリアス一ミュリアス、ミュリアスのミュリアス、そして第二位の最後の数を、10 のべきで書け。 一ミュリアスは $10^4$。ミュリアスのミュリアスは $10^4 \cdot 10^4 = 10^8$ で、第一位の終わりである。第二位は $10^8$ を単位とし、$10^8 \cdot 10^8 = 10^{16}$ まで続く。 練習:現代の数観測可能な宇宙にはおよそ $10^{80}$ 個の原子があると見積もられている。この数はアルキメデスの体系のどの位に入るか。 第 $k$ 位は $10^{8(k-1)}$ から $10^{8k}$ までである。$10^{80}$ については $8(k-1) < 80 \le 8k$、すなわち $k = 10$ で、$10^{80}$ は第一周期の第十位のちょうど最後の数である。砂を数えるためにつくられたアルキメデスの体系は、宇宙の原子を数えるにもまだ十分すぎるのである。

Hero Image
スクリュー、鉤爪、鏡

プルタルコスによれば、アルキメデスは工学を一段低い仕事とみなしており、自分の機械について本を一冊も残さなかった。それでも、同時代の人びとのあいだで彼を有名にしたのは機械だった。古代の史料はいくつかの機械を伝えているが、その信頼性には大きな差がある。 アルキメデスのスクリュー 内側に螺旋をもつか、外側に管を螺旋状に巻きつけた傾いた円筒の、下の端を水に浸す。円筒を回すと、水のひとかたまりずつが螺旋のひだに閉じこめられ、一回転ごとに上がっていき、上の端から出てくる。前一世紀の歴史家シチリアのディオドロスは、この発明をアルキメデスのエジプト滞在中のものとしている。エジプトではこの機械がナイル川沿いの畑の灌漑や、鉱山の排水に使われていたという。 もっとも簡単な形のアルキメデスのスクリュー。傾いた円柱に管を螺旋状に巻きつけたもので、1908 年の挿絵。Chambers’s Twentieth Century Dictionary · Wikimedia Commons · パブリックドメイン この装置はもっと古く、アルキメデスは改良したか広めただけだと考える歴史家もいる。いずれにせよ、スクリューはいまも使われている。下水処理場では汚泥を持ち上げるのに使われ、逆向きに回る巨大なものは、落差の小さい川で小さな水力発電所として働いている。 シラクサの防衛 包囲から一世紀もたたないうちに書いたポリュビオスが、もっとも信頼できる史料である。彼によれば、アルキメデスはどんな距離のローマ船にも届くよう、大小さまざまな投石機を用意した。城壁には手のひらの幅ほどの小さな穴をあけ、弓兵が身をさらさずに射られるようにした。そして城壁の上から、大きな石や鉛の塊を船の上に落とす起重機をつくった。 もっとも恐ろしい機械は鉤爪だった。鎖につながれた鉄の鉤をもつ腕で、船首をつかみ、てこのおもりの力で持ち上げてから急に放し、船を転覆させたり沈めたりした。ポリュビオスによれば、マルケルスは苦々しく冗談を言い、アルキメデスは自分の船をひしゃくにして海の水を汲んでいると言ったという。 燃える鏡 アルキメデスが鏡で太陽の光を集めてローマ艦隊に火をつけたという話は、ポリュビオスにもリウィウスにもプルタルコスにも出てこない。ずっと後の著者たちに現れるもので、もっとも詳しい記述は十二世紀のビザンツのヨハネス・ツェツェスによる。現代の実験の結果ははっきりしない。2005 年、MIT の学生たちは、127 枚の平らな鏡を使い、強い日ざしと晴れた空のもとで数分間かけて、30 メートル先にとまっている木の船体に火をつけることに成功した。テレビ番組『怪しい伝説(MythBusters)』は何度も試し、動いている船に対してはこの方法はうまくいかないと結論した。ほとんどの歴史家はこの話を伝説とみなしている。 プラネタリウム キケロによれば、シラクサの戦利品のなかからマルケルスが自分のためにローマへ持ち帰ったのは、ただひとつ、アルキメデスがつくった天球儀だった。太陽、月、惑星の動き、さらには日食や月食まで示すものだったという。アンティキテラ島の近くの難破船から、天体の位置を計算する前二世紀のギリシアの歯車装置が見つかってから、この記述はより信じられるものになった。この装置とアルキメデスの結びつきを示す証拠はないが、こうした機械がギリシアの技術者の手の届くものだったことはわかる。 練習:スクリューの流量アルキメデスのスクリューが毎分 30 回転し、螺旋の一回転ごとに 2 リットルの水を運ぶ。一時間に何立方メートルの水を持ち上げるか。10 m³ の貯水槽を満たすには何回転必要か。 毎分 $30 \times 2 = 60$ リットル、毎時 $60 \times 60 = 3600$ リットル、つまり $3.6$ m³ である。10 m³ = 10 000 リットルには $\frac{10\,000}{2} = 5000$ 回転が必要で、およそ 2 時間 47 分かかる。 練習:てことしての鉤爪鉤爪の腕が船の側で 12 m、おもりの側で 3 m あり、船首が腕の先に 5 トンに相当する力をおよぼすとする。それを持ち上げるにはどれだけのおもりが必要か。 てこの法則により $5 \times 12 = P \times 3$、よって $P = 20$ トンである。大きなおもりだが、城壁の近くで石や鉛の塊を使えば可能である。海の側の腕が長いほど鉤爪は遠くまで届くが、必要なおもりも大きくなる。

Hero Image
アルキメデスの遺産

アルキメデスとアポロニオスを理解する者は、今日のもっとも偉大な人びとの発見にも、それほど驚かなくなるだろう。 — ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ 写本 アルキメデスの残したものは、細い糸をたどって私たちのもとに届いた。彼の著作のほとんどすべては、三つのビザンツのギリシア語写本にかかっていた。研究者が A 写本、B 写本と呼ぶ二つは、ルネサンス期に書き写されたり翻訳されたりしたあとで失われた。三つめが、祈祷書の下に隠れていたパリンプセストである。1269 年、ドミニコ会士メールベケのギヨームがギリシア語の文章をラテン語に訳し、この訳を通じてアルキメデスはヨーロッパの大学で読まれるようになった。ギリシア語原文の最初の印刷版は 1544 年にバーゼルで出た。 継承者たち ルネサンスと科学革命の科学者たちは、彼を師として読んだ。ガリレオはヒエロンの冠についての小論『小さな天秤』で研究生活を始め、アルキメデスの足跡をたどって立体の重心を調べた。ケプラーは無限に薄い切片の考えを使って、ぶどう酒の樽の体積を計算した。カヴァリエリ、フェルマー、パスカル、ウォリスは、微積分へとつながる方法を発展させるとき、アルキメデスの面積と体積から出発した。1906 年に『方法』が再発見されると、彼がどれほど近くまで来ていたかが明らかになった。てこの上ではかられた切片は、本質的には積分だったのである。 数学の最高の賞であるフィールズ賞のメダルの表面。アルキメデスの横顔と、ラテン語の銘 Transire suum pectus mundoque potiri、「おのれを超え、世界をつかめ」が刻まれている。Stefan Zachow、国際数学連合のため撮影 · Wikimedia Commons · パブリックドメイン メダルの顔 四年ごとに 40 歳以下の数学者に贈られるフィールズ賞のメダルには、カナダの彫刻家ロバート・テイト・マッケンジーが 1933 年に制作したアルキメデスの横顔がある。裏面には、シラクサの墓と同じく円柱に内接する球と、「全世界から集まった数学者たちが、すぐれた著作に対してこの賞を贈った」というラテン語の銘がある。 名前 月のアルキメデス・クレーターは直径 82 km で、雨の海のふちにある。小惑星 3600 Archimedes も彼の名をもち、スクリュー、原理、螺旋、そしてときにアルキメデスの定数と呼ばれる定数、つまり $\pi$ そのものも同じである。エウレカという言葉は発見の叫びとしてほとんどあらゆる言語に入りこみ、アメリカのカリフォルニア州の標語にもなっている。 ホワイトヘッドの言葉 イギリスの哲学者で数学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは 1911 年に、ローマの兵士の手によるアルキメデスの死は世界の移り変わりを象徴していると書いた。「数学の図形を見つめることに没頭していたために命を落としたローマ人は、ひとりもいない」。ローマ人は偉大な技術者だったが、ギリシア人に匹敵する数学者はひとりも生まなかった。アルキメデスの死は、ある意味で、古代数学のもっとも創造的な時代の終わりを告げていたのである。 練習:クレーターアルキメデス・クレーターの直径は 82 km である。円形だとすると、その面積はいくらか。アルキメデスの限界 $\pi < \frac{22}{7}$ を使って、大きめの値を求めよ。 面積は $r = 41$ km として $\pi r^2$ である。$\pi \approx 3.1416$ なら $3.1416 \times 1681 \approx 5281$ km²。$\frac{22}{7}$ なら $\frac{22}{7} \times 1681 \approx 5283$ km² で、当然ながら少し大きい。五千を超える面積のなかで、差はわずか 2 km² である。

Hero Image
画像クレジット

歴史的な画像と写真 すべてウィキメディア・コモンズから取りました。コモンズが提供するファイルまたはサムネイルを、幅 800 ピクセル以下に縮小し、それ以外の編集はしていません。 思索するアルキメデス、ドメニコ・フェッティ画(1620 年頃):元のページ · パブリックドメイン。 シラクサのオルティージャ島、Andrea Schaffer 撮影:元のページ · CC BY 2.0。 アルキメデスとローマの兵士、十八世紀の古代風モザイク:元のページ · パブリックドメイン。 てこで地球を動かすアルキメデス、『メカニクス・マガジン』の版画(ロンドン、1824):元のページ · パブリックドメイン。 『球と円柱について』のラテン語写本(1270 年頃):元のページ · パブリックドメイン。 アルキメデスの墓を見つけるキケロ、ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ画(1787):元のページ · パブリックドメイン。 アルキメデスのパリンプセストの一葉、ウォルターズ美術館:元のページ · CC BY 3.0。 アルキメデスのスクリュー、『チェンバーズ二十世紀辞典』の挿絵(1908):元のページ · パブリックドメイン。 フィールズ賞のメダル、Stefan Zachow が国際数学連合のため撮影:元のページ · パブリックドメイン。 ブログのために作った図 表紙と四つのインタラクティブな図(てこ、π をはさむ多角形、放物線の求積の三角形、螺旋)は、このサイトのオリジナルのイラストで、文字はサイトの各言語の版があります。 記録 ファイル data/arquimedes_imagens.json には、ダウンロードした各画像の出所、ライセンス、確認日、SHA-256 ハッシュが記録されています。各トピックの歴史的な出典は、それぞれの記事の末尾にあります。 アルキメデスの全トピック · ← アルキメデスの遺産