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導関数と積分

『解析教程』の二年後、コーシーは『王立エコール・ポリテクニークにおける無限小計算講義要録』(1823)を出版した。四十の短い講義で、彼は微分学と積分学を極限の考えで建て直した。これは本質的に、微積分の教科書が今日でもしたがっている筋道である。 導関数 ラグランジュにとって、$f$ の導関数とは、$f(x + i)$ のべき級数における $i$ の係数だった。コーシーはそれを極限として定義した。 $$f'(x) = \lim_{i \to 0} \frac{f(x + i) - f(x)}{i}.$$$f(x) = x^2$ なら、$\frac{(x + i)^2 - x^2}{i} = \frac{2xi + i^2}{i} = 2x + i$ で、これは $2x$ に向かう。$i$ が「無限に小さい」と仮定する必要も、何かを捨てる必要もない。$i \neq 0$ で商を計算し、それがどこへ向かうかを見ればよい。 積分 それまで、積分するとはおもに原始関数を見つけることだった。積分は微分の逆だったのである。コーシーは順序を逆にし、積分を直接定義した。$f$ が $[x_0, X]$ で連続なとき、区間を点 $x_0 < x_1 < \cdots < x_n = X$ で分け、和 $$S = (x_1 - x_0) f(x_0) + (x_2 - x_1) f(x_1) + \cdots + (X - x_{n-1}) f(x_{n-1})$$をつくる。コーシーは、すべての小区間が小さくなるとき、$S$ が区間の分け方によらない極限に近づくことを証明した。この極限が積分 $\int_{x_0}^{X} f(x)\,dx$ である。三十年後、リーマンはこの定義を不連続な関数にまで広げ、各小区間で任意の点を選べるようにした。

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『方法』とパリンプセスト

アルキメデスの本には完璧な証明が書かれているが、どうやって結果にたどり着いたかは書かれていない。何世紀ものあいだ、数学者たちは彼に秘密の方法があったのではないかと疑ってきた。その疑いは正しく、方法はもっとも思いがけない場所で見つかった。 エラトステネスへの手紙 あることがらは、まず力学的な方法によって私に明らかになったが、そのあとで幾何学によって証明されねばならなかった。この方法による探究は証明を与えないからである。しかし、この方法によって問題についていくらかの知識を得てからのほうが、何も知らないときより証明を見つけるのはずっとやさしい。 — アルキメデス『方法』、エラトステネスへの手紙 『力学的定理の方法』と呼ばれる論考は、地理学者キュレネのエラトステネスにあてた手紙である。そのなかでアルキメデスは自分のやり方を明かしている。図形を無限に多くのごく薄い切片からできているものと考え、それらをてこの上ではかり、既知の図形の切片と一枚ずつくらべるのである。 球をはかる いちばん美しい例は球である。半径 $r$ の球と、底面の半径 $2r$、高さ $2r$ の円錐と円柱を、軸がてこの腕にそうように置く。支点から距離 $x$ のところで、すべてを腕に垂直な平面で切る。少し幾何学を使うと、球の切り口の面積は $\pi\left(2rx - x^2\right)$、円錐は $\pi x^2$、円柱は $\pi (2r)^2 = 4\pi r^2$ である。したがって $$\text{球の切り口} + \text{円錐の切り口} = \pi \cdot 2rx.$$アルキメデスは球と円錐の切り口を、てこの反対側の支点から距離 $2r$ のところへ移し、円柱の切り口は距離 $x$ のもとの場所に残す。モーメントは等しい。 $$2r \cdot \pi \cdot 2rx = x \cdot 4\pi r^2.$$これがどの切片についても成り立つので、距離 $2r$ につるした球と円錐の全体は、重心が距離 $r$ にある円柱全体とつりあう。てこの法則により $$2r\,(V_{\text{球}} + V_{\text{円錐}}) = r\,V_{\text{円柱}} \quad\Longrightarrow\quad V_{\text{球}} = \frac{1}{2}\cdot 8\pi r^3 - \frac{8}{3}\pi r^3 = \frac{4}{3}\pi r^3.$$これはまさに、彼がのちに球と円柱で厳密に証明する体積である。無限に多くの切片を足しあわせることは積分法の中心的な考えで、ニュートンとライプニッツより十八世紀も前のことだった。 祈祷書 950 年ごろ、コンスタンティノープルの写字生が、アルキメデスのいくつかの著作を羊皮紙に書き写した。1229 年、ある修道士が祈祷書をつくるのに羊皮紙を必要とした。彼は写本をばらし、インクを削りとり、紙葉を半分に切り、向きを変えて、その上に祈りを書いた。このように再利用された写本をパリンプセストという。

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ヨハン・ベルヌーイの遺産

ヨハン・ベルヌーイは、兄の『推測術』やニュートンの『プリンキピア』のような大著を書きませんでした。いちばん有名な本は他人の名で出ました。彼が残したのは仕事のしかたです。物理や幾何のあらゆる問題を方程式に変え、ライプニッツの微積分で解くこと。そして弟子たちを残しました。 ライプニッツの闘士 微積分を発明したのはニュートンかライプニッツかという争いで、ヨハンはライプニッツ側の最も戦闘的な兵士でした。1713 年のはじめ、ニュートンが会長をつとめる王立協会がニュートンに優先権を認める報告を出すと、ライプニッツは匿名のビラ『飛び紙』(Charta volans)で応じ、そこに「ある卓越した数学者」の判断を引用しました。それがヨハンでした。その後何年も、ヨハンはニュートンの方法では解けないと考えたむずかしい問題で、イギリスの数学者たちに挑みつづけました。ライプニッツは 1716 年に亡くなり、ヨハンはその後も長くひとりで戦いました。この争いのために、イギリスの数学はほぼ一世紀のあいだ大陸の数学から切り離されることになります。 関数という言葉 数学的な意味での 関数 という言葉は、1690 年代のライプニッツとヨハンの手紙のやりとりのなかで生まれました。1718 年、ヨハンは最初の定義を発表します。 私は、変量の関数とは、その変量と定数とからなんらかのしかたで組み立てられた量のことだと呼ぶ。 — ヨハン・ベルヌーイ『パリ科学アカデミー紀要』(1718) 彼は $x$ の関数をギリシャ文字 $\varphi$ で書き、ときにはかっこなしで $\varphi x$ と書きました。$f(x)$ と書きはじめたのは、1734 年、弟子のオイラーです。このサイトの旧関数講座に記号の年表があります。 年 人物 記号 1694 ヨハン・ベルヌーイ $x$ によって決まる量を、たとえば $n$ のような一文字で表す 1698 ヨハン・ベルヌーイ $x$ の関数を $X$ または $\xi$ で表す 1718 ヨハン・ベルヌーイ $\varphi x$ 1734 レオンハルト・オイラー $f\left(\frac xa+c\right)$ 一派 ヨハンは、同じ世紀のほかのどの先生よりも多くの重要な数学者を育てました。たとえば、 ロピタル侯爵。彼の講義を最初の微積分の本にした。 息子のニコラウス二世、ダニエル、ヨハン二世。 ダニエルは流体力学を創始し、ベルヌーイの名を冠した定理を残した。ヨハン二世は父の講座を継いだ。 レオンハルト・オイラー。その世紀最大の数学者で、土曜日ごとに指導を受けた。 最小作用の原理を唱えた ピエール=ルイ・モロー・ド・モーペルテュイ と、地球の形を研究した アレクシ・クレロー。 オイラーを通じて、この系譜はベルリンでオイラーの後を継いだラグランジュへ、そしてそこから十九世紀と二十世紀の数学の大部分へと続いていきます。 残ったもの 微積分。 ロピタルの定理、対数微分法、指数計算、関数の定義。 曲線。 懸垂線と最速降下線、そして運動と光のあいだのたとえ。 変分法。 最速降下線の挑戦と、等周問題をめぐるヤコブとの争いが、オイラーとラグランジュへの道を開いた。 力学。 仮想仕事の原理。静力学と『解析力学』の土台。 教育。 オイラーを筆頭とする一世代の数学者たち。 全集 1742 年、75 歳のヨハンはローザンヌとジュネーヴで四巻の『全集』(Opera omnia)を出版しました。編集したのは、連立一次方程式のクラメルの公式で知られるガブリエル・クラメルです。そこには『水力学』が、息子の『流体力学』より前に見えるようヨハンが選んだ 1732 年の日付つきで収められています。

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ベルヌーイ数:千個のべき乗を七分で足す

この表の助けを借りて、最初の千個の数の十乗を足すと 91 409 924 241 424 243 424 241 924 242 500 になることを、私は四半時間の半分もかからずに見つけた。 — ヤコブ・ベルヌーイ『推測術』(1713)第二部 少年 ガウス は、最初の数と最後の数を組にして、1 から 100 までの和を数秒で出したといわれます。$1+2+\cdots+n=\frac{n(n+1)}2$ です。平方や立方の和にも、アルキメデスやアラビアの数学者のころから知られた公式があります。 $$\begin{aligned}1^2+2^2+\cdots+n^2&=\frac{n(n+1)(2n+1)}6,\\ 1^3+2^3+\cdots+n^3&=\left(\frac{n(n+1)}2\right)^2.\end{aligned}$$では四乗、五乗、十乗は?十七世紀には何人もの数学者が、こうした公式をひとつずつ求めてページを埋めていました。フランスのイスマエル・ブイヨーは 1682 年に分厚い本を出しましたが、苦心のすえに六乗までしか届きませんでした。ヤコブ・ベルヌーイは、すべて を与える規則を見つけたのです。 表 『推測術』の第二部で、ヤコブは公式を上から下へ並べ、じっくりながめました。 $$\begin{aligned}\sum_{k=1}^n k&=\tfrac12n^2+\tfrac12n\\ \sum_{k=1}^n k^2&=\tfrac13n^3+\tfrac12n^2+\tfrac16n\\ \sum_{k=1}^n k^3&=\tfrac14n^4+\tfrac12n^3+\tfrac14n^2\\ \sum_{k=1}^n k^4&=\tfrac15n^5+\tfrac12n^4+\tfrac13n^3-\tfrac1{30}n\\ \sum_{k=1}^n k^5&=\tfrac16n^6+\tfrac12n^5+\tfrac5{12}n^4-\tfrac1{12}n^2\end{aligned}$$規則があります。$m$ 乗の和はいつも $m+1$ 次の多項式です。最初の係数は、積分 $\int_0^n x^m\,dx=\frac{n^{m+1}}{m+1}$ と同じく $\frac1{m+1}$。二番目はいつも $\frac12$。そのあとの係数は 二項式 $(n+1)^{m+1}$ の係数に、ある決まった数をかけたもののように見えます。 不思議な数 ヤコブは、今日 $B_0,B_1,B_2,\dots$ と書かれ ベルヌーイ数 と呼ばれる数の列がひとつあれば、すべての公式を一度に書けることに気づきました。 $$\boxed{\sum_{k=1}^n k^m=\frac1{m+1}\sum_{j=0}^{m}\binom{m+1}{j}B_j\,n^{m+1-j}}$$$B_j$ はどう求めるのでしょう。かんたんなこつがあります。公式は $n=1$ でも成り立たなくてはならず、そのとき和はただの $1^m=1$ です。$n=1$ とおくと $n$ のべき乗はすべて 1 になり、 $$\sum_{j=0}^{m}\binom{m+1}{j}B_j=m+1$$が残ります。$B_0=1$ から始めると、$m$ の値ごとに次の数が出てきます。 $m=1$:$1+2B_1=2$、よって $B_1=\frac12$。 $m=2$:$1+3\cdot\frac12+3B_2=3$、よって $B_2=\frac16$。 $m=3$:$1+4\cdot\frac12+6\cdot\frac16+4B_3=4$、よって $B_3=0$。 $m=4$:$1+5\cdot\frac12+10\cdot\frac16+0+5B_4=5$、よって $B_4=-\frac1{30}$。 続けると $B_6=\frac1{42}$、$B_8=-\frac1{30}$、$B_{10}=\frac5{66}$ で、1 より大きい奇数番目はすべて 0 です。これらの数には目に見える規則がありません。$B_{12}=-\frac{691}{2730}$ で、そこから先は急速に大きくなります。

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画像クレジット

歴史的な画像 すべてウィキメディア・コモンズから取りました。コモンズが提供するサムネイルを、編集せずに使っています。 ヨハン・ベルヌーイの肖像、アムステルダム国立美術館所蔵の版画:元のページ · CC0。 ギヨーム・ド・ロピタルの肖像:元のページ · パブリックドメイン。 『無限小解析』の扉、パリ、1696 年:元のページ · パブリックドメイン。 ダニエル・ベルヌーイの肖像、Johann Rudolf Huber の原画による Johann Jakob Haid の版画:元のページ · パブリックドメイン。 鎖とアーチ、ジョヴァンニ・ポレーニの図、Memorie istoriche della gran cupola del Tempio Vaticano、1748 年:元のページ · パブリックドメイン。 ブログの図 表紙と、同じ二点を結ぶサイクロイドと直線の図は、このサイトのオリジナルのイラストで、サイトの各言語の版があります。図は縮尺どおりで、二つの軸は同じ単位を使っています。遺産の記事にある関数の記号の表は、このサイトの旧関数講座の表をもとに作りなおしたものです。 記録 ファイル data/johann_bernoulli_imagens.json には、ダウンロードした各画像の出所、ライセンス、確認日、SHA-256 ハッシュが記録されています。各トピックの歴史的な出典は、それぞれの記事の末尾にあります。 ヨハン・ベルヌーイの全トピック · ← ヨハン・ベルヌーイの遺産

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ヤコブ・ベルヌーイの遺産

ヤコブ・ベルヌーイは五十年しか生きず、生前に発表したものも多くはありません。ほとんどが『学術紀要』の短い論文です。それでも、今も毎日使われる言葉や記号や考えをこれほど多く残した数学者はまれです。積分、ベルヌーイ試行、二項分布、ベルヌーイ数、大数の法則、確率的(stochastic)。 積分という言葉 ライプニッツは、微分の逆の演算を calculus summatorius、和の計算と呼び、summa(和)の S を引きのばした $\int$ で書きました。1690 年 5 月、等時曲線の問題を解いたヤコブは、二つの式が「等しい積分」をもつと書きました。積分(integral)という言葉が数学の文献に印刷されたのは、これが最初です。ヨハンがこの用語を採用し、1696 年にはライプニッツも自分の「和の計算」をベルヌーイ兄弟の 積分計算 に改めることに同意しました。記号はライプニッツのもの、名前はヤコブのものとして残ったのです。 年 人物 記号または名前 出所 1659 ピエトロ・メンゴリ omnia $x$ Geometriae speciosae elementa 1675 ライプニッツ $\int x$ 1675 年 10 月 29 日の手稿 1690 ヤコブ・ベルヌーイ 「integral」 『学術紀要』 1696 ライプニッツとヨハン・ベルヌーイ calculus integralis 書簡 1822 フーリエ $\int_a^b f(x)\,dx$ 『熱の解析的理論』 つるされた鎖 1690 年の同じ論文で、ヤコブは、両端をつるした鎖がどんな形になるかを問いました。ガリレオは放物線だと考えていました。1691 年、ヨハン、ライプニッツ、ホイヘンスが正しい答え、懸垂線 を発表しました。今日では双曲線余弦を使って $y=a\cosh\frac xa$ と書かれます。ヤコブは弟との競争に負けましたが、問いは彼のものでした。懸垂線 の物語はヨハンのコースにあります。 ド・モアブルと正規曲線 黄金の定理は頻度が確率に近づくことを述べていましたが、必要な観察数についてのヤコブの見積もりは大きすぎました。1733 年、ロンドンに亡命していたフランス人アブラーム・ド・モアブルは、$n$ が大きいときの二項展開の項のよりよい近似を探し、釣鐘形の曲線 $$y=\frac1{\sqrt{2\pi}}\,e^{-x^2/2}$$を見つけました。これが 正規曲線 の最初の登場で、のちにラプラスとガウスがこれを統計学の中心にすえます。これを使えば、ヤコブの壺に必要なのは、彼が計算した 25 550 回ではなく、およそ 6 500 回です。

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ライプニッツの遺産

微積分戦争 ライプニッツは 1684 年と 1686 年に微積分を発表しました。ニュートンは 1665–1666 年に同じ考えに達していましたが、すべてを手稿にしまい込んでいました。15 年間、誰も何も争いませんでした。 1699 年、ニュートンの友人でスイスの数学者ニコラ・ファシオ・ド・デュイリエが、ライプニッツはニュートンを参考にしたと著書でほのめかしました。1708 年、スコットランドのジョン・キールはさらに進んで、ライプニッツを剽窃で告発しました。根拠は、1676 年にロンドンを訪れたライプニッツが、ニュートンの『解析について』の写しを見たというものでした。 王立協会の会員だったライプニッツは、協会に公正な調査を求めました。1712 年、委員会はニュートンが最初の発明者であると結論しました。ライプニッツは自分の言い分を述べる機会を一度も与えられず、しかも報告書は、協会の会長であるニュートン本人がひそかに書いたものでした。 ライプニッツは匿名のパンフレットで応じ、争いを数学の挑戦問題で決着させようとしました。1716 年、問題が未解決のまま彼は亡くなりました。ニュートンはその死を聞いて、自分は「ライプニッツの心を打ち砕いた」と言ったと伝えられています。 今日の歴史家の結論ははっきりしています。二人はそれぞれ独立に微積分を発明しました。ライプニッツの手稿は、ニュートンとは異なる道を通って彼がどのように考えに達したかを一歩ずつ示しています。ニュートンが先に到達し、ライプニッツが先に発表し、しかもよりよい記号を使ったのです。 同じ物語をニュートンの側から語ったものは、ニュートンの遺産で読めます。 勝ち残った記号 この争いには思いがけない勝者がいました。記号です。ベルヌーイ家、オイラー、ラグランジュといった大陸の数学者たちはライプニッツの $dx$ と $\int$ を使い、18 世紀に微積分を大きく発展させました。イギリスではニュートンへの忠誠から点の記号が使われ続け、イギリスの数学は遅れました。1812 年、ケンブリッジの学生たちはまさにライプニッツの記号を採用するために解析協会を作り、それを冗談めかして、大学の「点の時代(もうろく時代)」に対抗する「純粋 d 主義」の推進だと言いました。 ライプニッツが数学に残したもの: 記号 $dx$、$\dfrac{dy}{dx}$、$\int$ 数学的な意味での関数と座標という言葉 掛け算の点「$\cdot$」と割り算のコロン「:」 相似の記号 $\sim$ と合同の記号 $\cong$(今日のものに近い形で) 数学を超えて ライプニッツは歴史上偉大な哲学者の一人でもあり、『モナドロジー』と『弁神論』を著しました。物理学では、動く物体の「力」をどう測るかをめぐってデカルトの支持者たちと論争し、彼の「活力」($mv^2$)は運動エネルギーという考えの祖先です。計算の分野では、二進法と推論を計算するという夢が、20 世紀になってようやく実現する考えを先取りしていました。 サイバネティクスの創始者ノーバート・ウィーナーは、ライプニッツをこの分野の「守護聖人」と呼びました。ドイツでもっとも重要な学術研究賞は、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ賞と呼ばれています。 まとめ ライプニッツは 1646 年から 1716 年まで生き、数学者であると同時に法学者、外交官、図書館長、哲学者だった。 大人になってからパリでホイヘンスに本格的に数学を学んだ。 1675 年に記号 $d$ と $\int$ を作り、1684 年と 1686 年に微積分を発表した。 連鎖律 $\dfrac{dz}{dx}=\dfrac{dz}{dy}\cdot\dfrac{dy}{dx}$ は、記号のおかげで約分のように見える。 積の導関数は $u\,dv+v\,du$ であって、$du\,dv$ ではない。 $\int$ と $d$ は逆の操作である。差を足し合わせると全体が戻ってくる。 二進法の算術を体系化し、1703 年に発表した。 段付き円筒を使って掛け算のできる機械を作った。 $\dfrac\pi4=1-\dfrac13+\dfrac15-\cdots$ を見つけたが、マーダヴァとグレゴリーがすでに知っていた。 ニュートンとライプニッツはそれぞれ独立に微積分を発明した。 資料: 生涯と業績、MacTutor · ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ図書館のライプニッツ文書。

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ニュートンの遺産

ニュートンは史上最大の天才であり、もっとも幸運な人でもあった。宇宙は一つしかなく、それを発見できるのは一度きりなのだから。 — ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、同時代人の記録による 微積分戦争 ニュートンは 1665–1666 年に流率法を作りましたが、発表しませんでした。ライプニッツは 1675 年に独立に微積分にたどり着き、1684 年に発表しました。最初の数年間、争いはありませんでした。1676 年には二人はヘンリー・オルデンバーグを通じて友好的な手紙を交わし、ニュートンは自分の考えをアナグラムに隠しました。 1700 年ごろ、空気が変わりました。ニュートンの支持者たちが、ライプニッツはロンドンで見た手稿から考えを写したのだとほのめかし始めたのです。ライプニッツは王立協会に抗議し、公正な調査を求めました。王立協会は委員会を設置し、1712 年にニュートンに有利な報告書を発表しました。 当時ほとんど知られていなかったことがあります。王立協会の会長はニュートン本人で、報告書を書いたのも彼だったのです。その後、彼は報告書を称賛する書評を匿名で発表しました。 今日の歴史家は、二人がそれぞれ独立に微積分を発明したという点で一致しています。ニュートンが先に到達し、ライプニッツが先に発表し、勝ち残った記号を作りました。この争いの代償は大きなものでした。国の誇りのために、イギリスの数学者たちは 1 世紀以上ニュートンの点の記号にこだわり、その間に大陸はライプニッツの $dx$ を使って、ベルヌーイ家やオイラーの手で大きく前進しました。1812 年になってようやく、ケンブリッジの学生たちが解析協会を作り、ライプニッツの記号をイギリスに取り戻しました。 この物語のもう一方の側は、ライプニッツのシリーズで読むことができます。 ニュートン力学の限界 200 年以上、ニュートンの法則はどこでも成り立つように見えました。20 世紀のはじめ、二つの理論がその限界を明らかにしました。 相対性理論。 光の速さに近い速度では、ニュートンが考えたように時間と空間が絶対的なものではなくなります。相対性理論では、動いている時計で測った時間間隔 $t'$ は、静止している人にとってはより長い時間間隔に対応します。 $$t=\frac{t'}{\sqrt{1-\dfrac{v^2}{c^2}}}.$$速度 $v$ が光速 $c$ に比べて小さいとき、根号はほぼ 1 になり、ニュートンの世界に戻ります:$\displaystyle\lim_{v\to0}t=t'$。$v\to c$ のときは、差はいくらでも大きくなります。 量子力学。 原子や粒子では、はっきりした軌道というものが意味をもたなくなります。 だからといって、日常生活でニュートンがまちがっているわけではありません。橋、自動車、飛行機、ロケットにとって、彼の力学は今でも使われるほど正確です。相対性理論はニュートンを消し去ったのではなく、ニュートンがどこまで通用するかを示したのです。 讃辞 「才知において人類を超えた人」 ケンブリッジのトリニティ・カレッジの礼拝堂には、プリズムを手にしたニュートンの大理石像があります。1755 年にルイ=フランソワ・ルビリアックが制作したものです。台座にはローマの詩人ルクレティウスの言葉が刻まれています。Qui genus humanum ingenio superavit、「才知において人類を超えた人」。ここで学んだ詩人ワーズワースは、この像を「思想の見知らぬ海を、永遠にただ一人旅する精神の、大理石の標」と表現しました。 ニュートンはウェストミンスター寺院に、王や女王たちに囲まれて葬られました。墓碑には、プリズム、反射望遠鏡、鋳造したばかりの硬貨を手にした天使たちと、1680 年の彗星の軌道が描かれた天球儀が刻まれています。 まとめ ニュートンは当時のイギリスの暦では 1642 年、私たちの暦では 1643 年に生まれた。 22 歳のとき、ペストで隔離されていた間に、二項級数、流率法、色の理論を生み出した。 二項式 $(1+x)^\alpha$ は、$|x|<1$ ならどんな指数でも成り立つ。 流率 $\dot x$ は変化率を測り、面積はその逆の操作である。 ニュートン法は接線をたどって根に近づく:$x_{n+1}=x_n-f(x_n)/f'(x_n)$。 『プリンキピア』(1687)には三つの運動法則と万有引力の法則がある。 月の検証は、地球の重力が距離の 2 乗に反比例して弱まることを示した。 プリズムは白い光にもともとある色を分けるのであって、色を作るのではない。 ニュートンとライプニッツはそれぞれ独立に微積分を発明した。 資料: 手稿への案内、ニュートン・プロジェクト · MacTutor の伝記。

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参考文献と図版出典

さらに学ぶために Cajori, Florian. A History of Mathematical Notations. 全2巻。Chicago: Open Court, 1928–1929。ニュートン、ライプニッツ、ラグランジュ、アルボガストの記法、$\int$ とフーリエの上端・下端、ウォリスの $\infty$。 Lagrange, Joseph-Louis. Théorie des fonctions analytiques. Paris: Imprimerie de la République, 1797。 Arbogast, Louis F. A. Du calcul des dérivations. Strasbourg: Levrault, 1800。 Wallis, John. De sectionibus conicis. Oxford, 1655。および Arithmetica infinitorum. Oxford, 1656。 Boole, George. On a general method in analysis. Philosophical Transactions of the Royal Society, 134, 1844, pp. 225–282。 Heaviside, Oliver. Electromagnetic Theory. 全3巻。London: The Electrician, 1893–1912。 Child, J. M. The Early Mathematical Manuscripts of Leibniz. Chicago: Open Court, 1920。「omn.」と最初の $\int$ を含む 1675 年 10 月の手稿。 Robinson, Abraham. Non-standard Analysis. Amsterdam: North-Holland, 1966。 Tall, David; Vinner, Shlomo. Concept image and concept definition in mathematics with particular reference to limits and continuity. Educational Studies in Mathematics, 12, 1981, pp. 151–169。 Thompson, Silvanus P. Calculus Made Easy. London: Macmillan, 1910。$dx$ を「$x$ のほんの少し」として扱って微積分を教える本。 Earliest Uses of Symbols of Calculus、Jeff Miller。 図版出典 図版 出典 ライセンス ラグランジュ『解析関数論』(1797)の扉 Wikimedia Commons パブリックドメイン オリヴァー・ヘヴィサイド、作者不詳の肖像 Wikimedia Commons パブリックドメイン 記号 ∞ の最初の使用、ウォリス『円錐曲線論』(1655) Wikimedia Commons パブリックドメイン ジョン・ウォリス、ゴドフリー・ネラーの原画にもとづく肖像 Wikimedia Commons パブリックドメイン 対話型の図(接線になる割線とリーマン和)はこの本のために作成したもので、サイトの四つの言語すべてで動作する。ダウンロードした図版の記録と各ファイルのハッシュ値は data/semiotica_imagens.json にある。

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微積分の読み方:手引きと用語集

この章では、微積分の記号を一つずつ読んできた。以下の手引きは、それらをまとめて読むのに役立つ問いを集めたものである。 微積分に向ける五つの問い 何が、何について変わるのか。 $\frac{dy}{dx}$ では、二つの文字がどちらも書かれている。$f'$ では変数は暗黙で、$\dot x$ では時間である。はっきりしなければ、書き出そう。 有限の差か、それとも極限か。 $\Delta$ と $\Sigma$ は数による計算であり、$d$ と $\int$ はその計算が限りなく縮んだあとに残るものである。形は似ていても、意味は変わる。 ここで約してよいか。 変数が一つで微分の階数が一つなら、$\frac{dy}{dx}$ は分数のようにふるまう。2 階導関数や偏導関数では、約す前に確かめよう。 どの文字が束縛されているか。 積分では $d$ の文字が束縛されており、極限では矢印の文字も束縛されている。どちらも外に出てきてはいけない。 その $\infty$ は方向か、量か。 $x\to\infty$ や $\sum^\infty$ では方向であり、それを含む計算には極限が必要である。量であるのはカントールの $\aleph$ だけである。 式一つの完全な読解 $$\frac{d}{dx}\int_0^{x}e^{-t^2}\,dt=e^{-x^2}.$$ 積分 $\int_0^xe^{-t^2}\,dt$ は、釣り鐘形の曲線の下の、$0$ から $x$ までの面積である。それは $x$ の関数である。$x$ ごとに面積が一つ決まる。 $t$ は束縛された文字である。$s$ に替えても何も変わらない。$x$ に替えるとまちがいになる。$x$ はすでに上端にあるからである。 $\frac{d}{dx}$ は演算子である。$x$ が増えるとき、その面積がどれだけの速さで増えるかを問うている。 $=$ は、すべての $x$ について成り立つ恒等式を主張している。基本定理の第一部である。 注目すべき点: 積分 $\int_0^xe^{-t^2}\,dt$ には初等関数による式がない。それでも、その導関数は一行で書ける。記法のおかげで、書き表せない関数について語ることができるのである。 用語集 差($\Delta$)。 量の有限の変化。$\Delta y=f(x+\Delta x)-f(x)$。 微分($dy$)。 接線に沿った変化。$dy=f'(x)\,dx$。歩幅が小さいとき $\Delta y$ を近似する。 導関数。 $\Delta x\to0$ のときの $\frac{\Delta y}{\Delta x}$ の極限。$\frac{dy}{dx}$、$f'(x)$、$\dot y$、$Dy$ と書く。 演算子。 関数を別の関数に変える規則。たとえば微分する $D$。足したり掛けたりでき、注意すれば因数分解もできる。 特性方程式。 定数係数の線形微分方程式で、$D$ を $r$ に置き換えて得られる多項式。 リーマン和。 積分を近似する長方形の面積の和 $\sum f(x_i)\,\Delta x$。 定積分。 リーマン和の極限。$\int_a^b f(x)\,dx$ で、一つの数である。 原始関数(不定積分)。 $F'=f$ となる関数 $F$。定数の違いを除いて決まる。$\int f(x)\,dx=F(x)+C$。 微積分の基本定理。 微分と積分は逆の演算である。$\frac{d}{dx}\int_a^xf=f(x)$、$\int_a^bF'=F(b)-F(a)$。 不定形。 $\infty-\infty$ や $\frac00$ のように、値が形だけでなく近づき方によって決まる式。 級数。 無限に多くの項をもつ和。部分和がある数に近づくとき収束するといい、その数を級数の和という。 条件収束。 収束するが、項を並べ替えると和が変わる級数。 練習:手引きを使う$\displaystyle\lim_{h\to0}\frac{\sin(x+h)-\sin x}{h}=\cos x$ を読め。 変わるのは極限に束縛された $h$ で、$x$ は自由である。分数は有限の差を歩幅で割ったもの、$\frac{\Delta y}{\Delta x}$ であり、極限がそれを導関数に変える。$=$ はすべての $x$ について成り立つ恒等式である。ラグランジュの記法では $\sin'=\cos$、アルボガストの記法では $D\sin=\cos$ という文になる。

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終わらない和:級数の等号

次のように書く。 $$1+\frac12+\frac14+\frac18+\cdots=2.$$$3+4=7$ のような計算に見える。左に項、右に結果。しかし、これらの項をすべて足した人は誰もいないし、これからもいない。ここでの等号は、第4章が挙げたどの仕事とも違う仕事をしている。それが主張しているのは、部分和 $$1,\quad1.5,\quad1.75,\quad1.875,\quad\ldots$$が望むだけ $2$ に近づく、ということである。記号では $$\sum_{n=0}^{\infty}\frac1{2^n}=\lim_{N\to\infty}\sum_{n=0}^{N}\frac1{2^n}=2.$$$\Sigma$ の上の $\infty$ は、前の文章の方向としての $\infty$ と同じである。最後の項ではなく、続けよという指示なのだ。 0.999… = 1 学生をいちばん落ち着かなくさせる等式は $$0.999\ldots=1$$である。多くの人は、$0.999\ldots$ は $1$ に「とても近づくが、けっしてたどり着かない」と考える。この反論には記号論的な根があり、点線は進行中の過程を描いているように見え、過程は終わらないからである。しかし $0.999\ldots$ は過程ではない。その過程の極限の名前である。 $$0.999\ldots=\frac9{10}+\frac9{100}+\frac9{1000}+\cdots=\frac{9/10}{1-1/10}=1.$$研究者のデイヴィッド・トールとシュロモ・ヴィナーは、古典となった 1981 年の研究で、これを概念イメージ(学生が記号を見て思い浮かべるもの)と概念定義の衝突と呼んだ。イメージは「近づいていく何か」であり、定義は「すべてがそこへ近づいていく数」である。 人をだます和 部分和がどこにも近づかないときも、$=$ を使った書き方は変わらない。危険はそこにある。 グランディの級数。 1703 年、イタリアの神父グイド・グランディは $$1-1+1-1+1-\cdots$$を考えた。ある組み方では $(1-1)+(1-1)+\cdots=0$。別の組み方では $1-(1-1)-(1-1)-\cdots=1$。グランディは和が $\frac12$ だと結論し、そこに無からの世界創造の姿を見た。部分和 $1,0,1,0,\ldots$ はどこにも近づかない。この級数は、極限の意味での和をもたない。 オイラーの $-1$。 等比級数の公式 $1+x+x^2+\cdots=\frac1{1-x}$ は $|x|<1$ で成り立つ。オイラーはこれを $x=2$ に使って $$1+2+4+8+\cdots=\frac1{1-2}=-1$$と書いた。正の数の和が負になったのである。書き方はこの代入に抗議もせず受け入れた。点線つきのすべての $=$ に収束の証明を求めるには、19 世紀の数学者たちを待たなければならなかった。 順序が大事になる 有限の和では、項の順序は関係ない。$3+4=4+3$。無限の和では、関係しうる。交代調和級数 $$1-\frac12+\frac13-\frac14+\frac15-\cdots=\ln2\approx0.693$$は収束する。では同じ項を、正の項一つのあとに負の項を二つ置くように並べ替えてみよう。 $$1-\frac12-\frac14+\frac13-\frac16-\frac18+\frac15-\frac1{10}-\frac1{12}+\cdots$$三つずつまとめると、各組は $\frac1{2k-1}-\frac1{2(2k-1)}-\frac1{4k}=\frac12\left(\frac1{2k-1}-\frac1{2k}\right)$ で、和全体はもとの半分、$\frac12\ln2$ になる。ベルンハルト・リーマンは、このような級数では、うまく並べ替えれば望むどんな値にもできることを証明した。記号 $\Sigma$ は項の順序を見せない。そしてここでは、順序がすべてなのである。 アキレスと亀 2500 年前のエレアのゼノンのパラドックスは、変装した級数である。アキレスは亀の十倍の速さで走り、亀は 100 メートル先から出発する。アキレスが亀のいた場所に着くと、亀は 10 メートル進んでいる。そこに着くと、亀はさらに 1 メートル進んでいる。これが続く。ゼノンは、アキレスはけっして亀に追いつけないと結論した。級数 $100+10+1+0.1+\cdots=111.1\ldots$ は、彼が $111\frac19$ メートル走ったところで追いつくことを示している。パラドックスは、無限に多くの段階を無限の時間と取り違えたことから生まれる。 練習:0.333… と 0.999…$0.333\ldots$ を等比級数として書き、和を計算せよ。次に、その結果を使って $0.999\ldots$ を求めよ。