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パスカルの原理:水で力を何倍にもする

ゾウとハイヒールをはいた女性。やわらかい地面に深く沈むのはどちらでしょうか。女性のほうかもしれません。ゾウは五十倍も重いのですが、その重さは四本の大きな足に広がっています。女性の重さは、細いヒールの先に集中しています。 地面を沈ませるのは力ではなく圧力です。圧力とは、力をそれがかかる面積で割ったものです。 $$p=\frac FA.$$圧力の単位はパスカルです。$1\ \text{Pa}=1\ \text{N/m}^2$、つまり 1 ニュートンの力が 1 平方メートルに広がった圧力です。これはとても小さな圧力で、海面での大気の圧力は約 $100\,000$ Pa です。 液体についての論文 1653 年ごろ、パスカルは『流体の平衡について』を書きました。出版されたのは彼の死後の 1663 年です。そこには、今日パスカルの原理と呼ばれる規則が書かれています。 閉じこめられて静止している液体の一点に加えられた圧力の増加は、液体のすべての点と容器の壁に、等しく伝わる。 歯みがきのチューブの真ん中を押すと、口から中身が出てきます。指の圧力がそこまで届いたのです。風船に水を入れ、何か所か穴をあけて押すと、すべての穴から、あらゆる方向に水が噴き出します。 破裂した樽 パスカルが有名な実演をしたという話があります。水をいっぱいに入れてしっかり閉じた樽のふたに、高さ約 10 メートルの細くて長い管を差し込みました。バルコニーに上がって管に水を注ぐと、1 リットルあまりで樽が破裂したというのです。 この場面が本当にそのとおりだったかはわかりませんが、計算するとありえたことがわかります。高さ $h$ の液柱の底での圧力は $$p=\rho gh,$$です。$\rho$ は液体の密度、$g\approx9.8\ \text{m/s}^2$ です。高さ 10 メートルの水なら、$\rho=1000\ \text{kg/m}^3$ として $$p=1000\cdot9.8\cdot10=98\,000\ \text{Pa}.$$大事なのは水柱の高さで、水の量ではありません。管の断面積が $1\ \text{cm}^2$ なら、10 メートルの水はたった $1$ リットルです。ところが、この $98\,000$ Pa は樽のふた全体に伝わります。ふたの面積が $0.2\ \text{m}^2$ なら、ふたにかかる力は $$F=pA=98\,000\cdot0.2=19\,600\ \text{N},$$2 トンのものの重さに相当します。細い管の中のたった 1 リットルの水が、自動車が載っているような力でふたを押すのです。 水圧機 パスカルは、この原理を使えば力を何倍にもできることに気づきました。水を満たした二つの円筒が底でつながり、それぞれピストンでふさがれているとします。一方は細く、もう一方は太い。細いピストンを力 $F_1$ で押すと、圧力は $F_1/A_1$ だけ増え、その同じ増加が太いピストンに伝わります。 $$\frac{F_1}{A_1}=\frac{F_2}{A_2}\quad\Longrightarrow\quad F_2=F_1\cdot\frac{A_2}{A_1}.$$ 小さなピストンを押す一人の人は、百倍広いピストンを押す百人の人の力に等しくなる。 — ブレーズ・パスカル『流体の平衡について』 小さいほうの面積が $2\ \text{cm}^2$、大きいほうが $8\ \text{cm}^2$ なら、比は $4$ です。小さいピストンに $50$ N の力をかけると、大きいピストンでは $200$ N になります。車を持ち上げる油圧ジャッキも、足一本の力で車を止めるブレーキも、ショベルカーも、この仕組みで動いています。

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無限降下法:より小さな解が矛盾を導く

各段に正の整数が書かれた階段を想像してください。下りていくことはできます。10、7、4、2、1……でもいつかは階段が終わります。どんどん小さくなる正の整数の無限の列は存在しません。 当たり前に思えます。フェルマーはこの当たり前のことを、数論でもっとも強力な道具の一つに変えました。無限降下法です。 使い方 ある方程式が正の整数の解をもたないことを証明するには、 解があると仮定する。 そこから、やはり正の整数で、しかもより小さい、別の解を作る。 くり返す。新しい解からさらに小さな解が得られ、それが永遠に続く。 これは不可能である。正の整数の階段には終わりがあるからだ。したがって、1 の解は存在しなかった。 フェルマーはこの方法を誇りにしていました。1659 年、数学者ピエール・ド・カルカヴィへの手紙で、数についての結果のほとんどはこの方法で証明したと述べています。 例:2 の平方根 $\sqrt2$ が分数でないことは、ギリシア人がすでに知っていました。無限降下法を使うと、短く美しい証明が得られます。 $\sqrt2=\dfrac ab$($a$、$b$ は正の整数)と仮定します。2 乗すると、 $$a^2=2b^2.$$右辺は偶数なので、$a^2$ は偶数です。奇数の 2 乗は奇数なので、$a$ は偶数でなければなりません。$a=2c$ とおいて代入すると、 $$4c^2=2b^2\qquad\Longrightarrow\qquad b^2=2c^2.$$何が起きたか見てください。$(b,c)$ は $(a,b)$ と同じ方程式を満たしています。つまり $\sqrt2=\dfrac bc$。しかもこの新しい分数の数はより小さい。$a^2=2b^2<4b^2$ なので $a<2b$、したがって $c=\dfrac a2

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カルクレムス:推論を計算するという考え

私たちの推論を正す唯一の方法は、それを数学者の推論のように手でつかめるものにして、誤りが一目でわかるようにすることである。そして人々の間で論争が起きたときには、ただこう言えばよい。計算しよう! と。そうすれば、それ以上の手間なしに、どちらが正しいかがわかる。 — ライプニッツ『発見の技法』(1685) ライプニッツは法律家であり、外交官であり、哲学者でした。宗教の間、国の間、哲学の学派の間で、決して終わらない議論を一生見てきました。一方、数学者は $2+2$ が 4 かどうかで議論しません。計算するだけです。もし推論も、数のように計算できたら? 思考のアルファベット 計画は二つの部分からなっていました。 一つ目は普遍言語で、ライプニッツはそれを characteristica universalis(普遍記号法)と呼びました。そこでは単純な観念がそれぞれ記号をもち、複雑な観念は、単語が文字の組み合わせであるように、それらの記号の組み合わせになります。ライプニッツはこれを 20 歳のとき、1666 年の『結合法論』で考え始めていました。 二つ目は推論計算、calculus ratiocinator です。記号を操作して、足し算をするように機械的に正しい結論を導くための規則です。そんな世界では、議論は紙と鉛筆で決着がつくでしょう。 素数としての概念 ライプニッツは実際に、数を使った方式を試しました。考え方はこうです。単純な概念それぞれに素数を割り当て、複合的な概念には、その部分の素数の積を割り当てる。 たとえば古典的な定義では「人間は理性的な動物である」。動物 $=2$、理性的 $=3$ とすれば、人間 $=2\times3=6$ です。 すると「すべての人間は動物である」という文は算術の問題になります。2 は 6 を割り切るか? 割り切るので、この文は真。では「すべての動物は人間である」は? 6 は 2 を割り切るか? 割り切らないので偽。概念についての推論が、割り算の問題になったのです。 この方式には深刻な問題がありました。否定や「ある〜は」という文をうまく扱えなかったのです。ライプニッツはそれを知っていて、別の形も試し続けました。しかし中心となる考え、論理は代数になりうるという考えは、すでに打ち出されていました。 今日の記号での例 今日、私たちは論理記号で推論を書きます。ある図形についての三つの命題を考えましょう。 $P$:その図形は正方形である。 $Q$:その図形は長方形である。 $R$:その図形の対角線は同じ長さである。 $P\Rightarrow Q$(すべての正方形は長方形)かつ $Q\Rightarrow R$(すべての長方形の対角線は等しい)なら、$P\Rightarrow R$。結論は議論の形から出てくるので、正方形について考える必要はありません。これこそライプニッツが望んだことです。記号だけを見て推論を確かめること。 しかし記号は奇跡を起こしません。前提がまちがっていれば、計算がどれほど正しくても結論はまちがいうるのです。また、含意を逆にするのはよくある誤りです。「すべての正方形は長方形である」から、すべての長方形が正方形であることは出てきません。 組み合わせることと解釈すること 三つの命題がそれぞれ真か偽なら、組み合わせは $2^3=8$ 通り。000、001、010、011、100、101、110、111。これは 0 から 7 までの二進法表記です。ライプニッツが感じとっていた論理と 0・1 の数との結びつきは、2 世紀後に中心的なものになります。 一部が実現した夢 ライプニッツの論理学の著作は、19 世紀までほとんどすべて未発表のままでした。それでも、この考えは戻ってきました。 1854 年、ジョージ・ブールは『思考の法則』を出版し、論理を 0 と 1 の代数に変えた。 1879 年、ゴットロープ・フレーゲは論理のための完全な記号言語を作った。それはライプニッツが思い描いたものにとても近かった。 1936 年、アラン・チューリングは、規則で記述されたどんな計算でも実行できる抽象的な機械を描いた。 しかし 1931 年、クルト・ゲーデルは、どんな規則の体系も数学のすべての真理を決定することはできないことを証明しました。ライプニッツの夢の全体は不可能なのです。それでも、その可能な部分はすべてのコンピュータの中にあります。規則に従って記号を操作する機械です。

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光と色:プリズムは虹を作らない

ニュートンの時代にはすでに、太陽の光がガラスのプリズムを通ると色の帯ができることが知られていました。広く受け入れられていた説明はアリストテレスとデカルトに由来するもので、白い光は純粋であり、ガラスがそれを変化させ、少しずつ暗くするのだ、というものでした。変化が小さければ赤、大きければ青や紫になる、と。 ニュートンは疑いました。もしかすると色はもともと白い光の中にあって、プリズムはそれを分けているだけではないか? 暗い部屋 1666 年、ニュートンは部屋を暗くし、窓の雨戸に小さな穴をあけて、細い太陽光線を入れました。その通り道にプリズムを置くと、反対側の壁に赤から紫までの色の帯が現れました。 最初の驚きはその形でした。穴は丸いので、「変化」説によれば丸い色のしみができるはずです。ところが帯は幅の 5 倍も長かったのです。ニュートンにとって、これは色ごとに曲がる角度が違うことを意味していました。紫がいちばん大きく、赤がいちばん小さく曲がるのです。 決定実験 これだけではまだ何も証明できません。プリズムが色を「作り」続けているのかもしれないからです。そこでニュートンは、彼が experimentum crucis、つまり決定実験と呼んだものを行いました。 板に穴をあけて、帯のうち一つの色、たとえば赤だけを通し、その光を2 つ目のプリズムに通しました。ガラスが色を作るのなら、2 つ目のプリズムは赤を新しい虹に変えるはずです。そうはなりませんでした。赤は赤のまま、ただ曲がって出てきただけで、しかもいつも同じ角度でした。青も同じで、曲がる角度が大きいだけでした。 結論:それぞれの色は白い光の成分であり、固有の屈折の度合いをもっている。プリズムは色を作るのではなく、分けるのだ。議論を完結させるため、ニュートンはレンズと 2 つ目のプリズムで色を再び集め、もう一度白い光を得ました。 説明図:プリズムは白い光にもともと含まれている色を分ける。線は色ごとの経路を示し、縮尺は正確ではない。ブログのオリジナル図版。 危険な実験 ニュートンは自分の体で視覚を調べました。ノートには、太い針を眼球と眼窩の骨の間に差し込み、目の奥を押して、現れる色の輪を観察したと書いています。別のときには鏡に映した太陽を長く見つめすぎて、視力が戻るまで何日も暗闇にこもらなければなりませんでした。決してまねしないでください。 屈折を数で表す 今日、屈折はスネルの法則で表されます。これはニュートン以前に発見されていました(イブン・サフル、スネル、デカルトがそれぞれ独立に到達)。 $$n_1\sin\theta_1=n_2\sin\theta_2.$$角度は面に垂直な線(法線)から測り、$n$ は各媒質の屈折率です。今日の言葉で言えば、ニュートンの発見はガラスの屈折率が色によって違うということです。普通のガラスでは、赤に対して約 $1.51$、紫に対して約 $1.53$。差は小さくても、色を扇形に広げるには十分です。 たとえば、空気($n_1=1$)から $\theta_1=45°$ でガラスに入る光線を考えます。赤では $\sin\theta_2=\dfrac{0.707}{1.51}\approx0.468$ で $\theta_2\approx27.9°$、紫では $\sin\theta_2=\dfrac{0.707}{1.53}\approx0.462$ で $\theta_2\approx27.5°$。プリズムの最初の面だけで、すでに 0.5 度の差がつきます。 なぜ七色なのか? スペクトルは連続していて、色と色の間に自然な境目はありません。ニュートンははじめ五色を数えました。その後、音階の七つの音と対応させたくて、橙と藍を加えて七色にしたのです。今でも虹は七色だと言われるのはそのためです。 鏡の望遠鏡 ニュートンが 1668 年につくった最初の反射望遠鏡の複製。1924 年にロンドンの科学博物館のためにつくられた。Science Museum Group · Wikimedia Commons · CC BY 4.0 この発見には実用的な結果がありました。当時の望遠鏡はレンズを使っていましたが、レンズもプリズムと同じように色ごとに光の曲げ方を変えます。星は縁に色がにじんでぼやけて見えました。ニュートンは、単純なレンズではこの問題を解決できないと結論し、主レンズをすべての色を同じように反射する曲面鏡に置き換えました。 1668 年、彼は金属の鏡を自分で磨いて、長さ約 15 cm の、実際に使える最初の反射望遠鏡を作りました。1671 年に王立協会で披露されたこの装置が、彼を有名にしました。ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡を含め、今日の大型望遠鏡は反射式です。

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弾性体の応力

コーシーは技師であることをやめなかった。1822 年、クロード=ルイ・ナヴィエは分子間の力にもとづく弾性固体の理論をアカデミーに提出し、オーギュスタン・フレネルは光を弾性媒質であるエーテルの横振動として説明していた。アカデミーで二人の同僚だったコーシーは、これらの仕事を間近で追っていた。1822 年 9 月 30 日、彼はアカデミーで、分子を必要としない新しい理論を発表した。 想像上の切り口 荷重を受けた梁、橋、柱を思い浮かべよう。内部に一点をとり、そこを通る小さな平らな切り口を想像する。その垂直な向きを $\mathbf{n}$ とする。切り口の一方の側の物質は、もう一方の側の物質を引いたり押したりする。この切り口での単位面積あたりの力はベクトル $\mathbf{t}$ で、コーシーはそれを「圧力」とよび、今日では応力ベクトルとよぶ。 このベクトルは切り口に垂直とはかぎらない。垂直な部分は垂直応力で、圧縮したり引き伸ばしたりする。平行な部分はせん断応力で、二つの面をたがいにすべらせようとする。そして同じ点のまわりで切り口を回すと、$\mathbf{t}$ も変わる。 コーシーの定理 コーシーの発見は、この依存関係が考えうるもっとも単純なもの、つまり線形だということである。数の表 $\sigma$ があって、どんな向き $\mathbf{n}$ に対しても $$\mathbf{t} = \sigma\,\mathbf{n}, \qquad \sigma = \begin{pmatrix} \sigma_{xx} & \sigma_{xy} & \sigma_{xz} \\ \sigma_{xy} & \sigma_{yy} & \sigma_{yz} \\ \sigma_{xz} & \sigma_{yz} & \sigma_{zz} \end{pmatrix}$$となる。表は対称なので、六つの数があれば、その点を通るあらゆる切り口での力がわかる。これがコーシーの応力テンソルである。 論法は四面体の論法である。三つの面が座標平面に平行で、四つめの面が $\mathbf{n}$ に垂直な、ごく小さな四面体を切り出す。面にかかる力は面積に比例し、面積は大きさの二乗で小さくなる。重さや慣性は体積に比例し、体積は大きさの三乗で小さくなる。ごく小さな四面体では面にかかる力だけが効き、それらはつり合わなければならない。各座標面の面積は、斜めの面の面積に $\mathbf{n}$ の成分のひとつを掛けたものなので、つり合いからちょうど $\mathbf{t} = \sigma\mathbf{n}$ が出てくる。 平面での例 平面では、表は三つの数からなる。メガパスカル単位で $$\sigma = \begin{pmatrix} 3 & 1 \\ 1 & 1 \end{pmatrix}$$としよう。縦の切り口では $\mathbf{n} = (1, 0)$ で、$\mathbf{t} = (3, 1)$。垂直応力 3(引張り)、せん断応力 1 である。横の切り口では $\mathbf{n} = (0, 1)$ で、$\mathbf{t} = (1, 1)$。垂直応力 1、せん断応力 1 である。図で切り口を回し、二つの成分を追ってみよう。

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ベルンハルト・リーマンの遺産

リーマンは輝かしい直観の人である。 — フェリックス・クライン『19 世紀の数学の発展についての講義』(1926) デデキントとヴェーバーが 1876 年に編集したリーマンの全集は、遺稿やメモを含めても五百ページあまりの一巻に収まる。これほど少ない文章から、これほど多くの帰結を残した数学者はほとんどいない。 彼の名を冠したもの リーマン積分とリーマン和。微積分の授業で教える積分の定義である。 リーマン面とリーマン球面。後者は、無限遠点を加えて球のように閉じた複素平面である。 コーシー=リーマンの方程式とリーマンの写像定理。 リーマン幾何学、リーマン多様体、計量、リーマン曲率テンソル。一般相対性理論の言葉である。 リーマン=ロッホの定理。リーマン面の上に定義できる関数を数える定理で、弟子のグスタフ・ロッホが 1865 年に完成させた。 リーマンのゼータ関数とリーマン予想。 条件収束する級数についてのリーマンの並べかえ定理。 新しい流儀 個々の結果以上に、リーマンは数学の流儀を変えた。彼以前、関数とはなによりも式であり、数学者は式を操作して仕事をしていた。リーマンは概念で考えた。式ではなく性質によって定義される複素関数、どこにも描かれずに定義される面、測り方の規則によって定義される空間である。ヒルベルトからワイルまで、二十世紀の数学者たちは、のちに主流となる「概念的」な数学の創始者を彼のうちに見た。 この流儀には代償もあった。リーマンはしばしば直観を頼りに、完全な証明なしに結果を述べた。ディリクレの原理に対するワイエルシュトラスの批判はその危うさを示し、何世代もの数学者が、リーマンの主張に厳密な基礎を与えるために働いた。その主張はほとんどすべて正しかったのである。 1863 年、死の三年前のベルンハルト・リーマン。作者不詳 · Wikimedia Commons · パブリックドメイン 物理学のなかで リーマンの幾何学は半世紀以上のあいだ純粋数学にとどまっていたが、1912 年から 1915 年にかけて、アインシュタインが数学者の友人マルセル・グロスマンの助けを借りて、それが一般相対性理論のための道具であることに気づいた。いまでは同じ言葉が、ブラックホール、重力波、宇宙の膨張を記述している。一方ゼータ関数は、統計物理学や場の量子論、そして奇妙な一致のなかに現れる。ゼータの零点の間隔は、重い原子核のエネルギー準位と同じ統計に従うのである。これは 1972 年にヒュー・モンゴメリーとフリーマン・ダイソンが気づいたことである。 ゆかりの場所 月にはリーマン・クレーターがあり、小惑星 4167 Riemann もある。生まれ故郷のブレゼレンツには銘板をはめた石が数学者をしのび、ゲッティンゲンでは銘板が彼の住んだ家のひとつを示している。 練習:リーマン球面リーマン球面は、北極からの投影によって複素平面を球面と同一視する。$|z|$ がとても大きい点 $z$ はどこへ行くか。 立体射影は、北極を通る直線によって、北極以外の球面の各点を平面の一点と結びつける。原点から遠く離れた平面の点は、北極にごく近い球面の点に対応する。北極そのものは、ただ一つの「無限遠点」$\infty$ に対応する。こうして $\frac{1}{z}$ のような関数が球面全体で定義される。$\frac{1}{0} = \infty$、$\frac{1}{\infty} = 0$ である。 練習:実りの多い生涯リーマンは最初の大きな仕事である博士論文を 1851 年に発表し、1866 年に亡くなった。全集がおよそ 550 ページだとすると、研究生活の一年あたり平均何ページ書いたことになるか。 1851 年から 1866 年までは 15 年である。$\frac{550}{15} \approx 37$ ページ毎年で、一週間に一ページにも満たない。数学で大切なのは量ではなく考えの深さであることを、これほどよく示す例はめったにない。

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明日も太陽は昇るか? 継起の規則

古典的な確率は原因から結果へ向かう。硬貨が公正だとわかっているとき、表が出る確率はいくらか。だが問題は逆であることが多い。結果を見て、原因について知りたいのである。ある結果を見たあとで、硬貨について何が言えるか。この原因の確率をはじめて数学的に扱ったのはイギリスの牧師トマス・ベイズで、その論文は彼の死後、1763 年に発表された。ラプラスは 1774 年に、ベイズを知らないまま独立に同じ考えに達した。そしてそれを発展させ、応用したのはラプラスである。 中身のわからない壺 白い玉と黒い玉が、わからない割合 $p$ で入った壺を考える。$p$ については何も知らない。0 から 1 までのどの値も同じくらいありそうに思える。玉を $n$ 個(毎回戻しながら)取り出したところ、すべて白だった。次も白である確率はいくらか。 割合が $p$ なら、白が $n$ 回続く確率は $p^n$ である。見たことをよく説明する $p$ の値ほど重みが大きくなる。各 $p$ に $p^n$ の重みをつけると、次が白である確率は、この重みでとった $p$ の平均になる。 $$P(\text{次も白}) = \frac{\int_0^1 p \cdot p^n\,dp}{\int_0^1 p^n\,dp} = \frac{\frac{1}{n+2}}{\frac{1}{n+1}} = \frac{n+1}{n+2}.$$これがラプラスの継起の規則である。観測がまったくないとき($n = 0$)は $\frac{1}{2}$。白が一つ出たあとは $\frac{2}{3}$、十個出たあとは $\frac{11}{12}$。もっと一般に、$n$ 回のうち $s$ 回白が出たなら、次が白である確率は $\frac{s+1}{n+2}$ である。 図は、白が積み重なるにつれて重みの曲線 $(n+1)p^n$ がどう変わるかを示している。曲線は $p = 1$ の近くに集まっていくが、確実になることはけっしてない。 この対話型の図を使うには JavaScript を有効にしてください。議論の全体は本文にあります。 日の出 1814 年の『哲学的試論』で、ラプラスはこの規則を、のちに有名になる例にあてはめた。記録に残る歴史が 5000 年、つまり $1\,826\,213$ 日あり、そのすべての日に太陽が昇ったとする。規則によれば、明日太陽が昇る確率は

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砂粒を数える者

ゲロン王よ、砂の数は無限だと考える人びとがいます。私はあなたに、私が名づけた数のなかには、大地を満たす砂の数ばかりでなく、宇宙を満たす砂の数をも超えるものがあることを示そうと思います。 — アルキメデス『砂粒を数える者』、ゲロン王への手紙 『砂粒を数える者』はヒエロン王の息子ゲロンにあてた手紙で、アルキメデスの本のなかでただひとつ、数学者でない読者のために書かれたものである。問題は、宇宙全体を満たすのに必要な砂粒の数より大きな数が存在することを証明することだった。 名前のない数 難しいのは計算ではなく、名づけることだった。ギリシアの記数法はアルファベットの文字を使い、実際にはミュリアス、つまり 10 000 までしか届かなかった。「ミュリアスのミュリアス」すなわち $10^8$ は、もう途方もない数だった。アルキメデスはその先へ進むことを提案した。 $10^8$ までの数を第一位とする。 $10^8$ を新しい単位として、$10^8 \cdot 10^8 = 10^{16}$ までの数を第二位とする。 以下同様にして第 $10^8$ 位まで進む。それは $\left(10^8\right)^{10^8} = 10^{800\,000\,000}$ で終わる。 これらすべての位が第一周期をつくる。アルキメデスはさらに周期を重ね、$10^{8 \cdot 10^{16}}$ にまで達した。要するに、底のべきを階段として使うという考えであり、科学的記数法の背後にあるのと同じ考えである。 宇宙の大きさ 宇宙を満たすには、その大きさを知らなければならない。アルキメデスは当時の天文学者が唱えたうちでもっとも大きな宇宙を選んだ。太陽を中心に置き、地球がそのまわりを回るとしたサモスのアリスタルコスの宇宙である。このモデルでは、一年を通じて恒星の見かけの位置のずれがまったく感じられないほど、恒星は遠くになければならなかった。 コペルニクス以前の太陽中心説 この問題についてのアリスタルコスの本は失われた。太陽を中心とする彼のモデルについて私たちが知っていることは、おもに『砂粒を数える者』のこの一節による。アルキメデスはここで、この仮説を最悪の場合として使うために要約しているのである。十八世紀のち、コペルニクスはアリスタルコスの考えを知っており、『天球の回転について』の手稿で彼に触れてさえいたが、その一節は印刷版では削られた。 それからアルキメデスは、いつも安全な側に大きく見積もりながら計算した。ケシの種一粒に砂粒がいくつ入るか、指の幅にケシの種がいくつ並ぶか、一スタディオン(およそ 180 m)に指の幅がいくつあるか、宇宙の直径に何スタディオンあるか。すべてを掛けあわせて、アリスタルコスの宇宙には $$10^{63} \text{ 粒}$$より少ない砂しか入らないと結論した。これは第一周期の第八位の数で、彼が考えだした体系の限界にはまだほど遠い。 なぜ王がそれを知りたがるのか この本は無限そのものについての授業である。多くの人は「とても大きい」と「無限」を混同していた。アルキメデスは、想像もつかないように見える量にも数があり、数学はそれに名前をつけ、それを超えることができると示している。同時にこの本は、太陽、月、地球の大きさ、さらにはアルキメデス自身による太陽の見かけの直径の測定など、当時の天文学の知識を集めてもいる。 練習:ミュリアス一ミュリアス、ミュリアスのミュリアス、そして第二位の最後の数を、10 のべきで書け。 一ミュリアスは $10^4$。ミュリアスのミュリアスは $10^4 \cdot 10^4 = 10^8$ で、第一位の終わりである。第二位は $10^8$ を単位とし、$10^8 \cdot 10^8 = 10^{16}$ まで続く。 練習:現代の数観測可能な宇宙にはおよそ $10^{80}$ 個の原子があると見積もられている。この数はアルキメデスの体系のどの位に入るか。 第 $k$ 位は $10^{8(k-1)}$ から $10^{8k}$ までである。$10^{80}$ については $8(k-1) < 80 \le 8k$、すなわち $k = 10$ で、$10^{80}$ は第一周期の第十位のちょうど最後の数である。砂を数えるためにつくられたアルキメデスの体系は、宇宙の原子を数えるにもまだ十分すぎるのである。

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マリア・ガエターナ・アニェージの遺産

長いあいだ、アニェージは彼女のしたこととはあまり関係のない二つのかたちで記憶されてきた。英語圏の数学者にとっては、魔女というあだ名の曲線の名前だった。ミラノの人びとにとっては、若いころに難しい本を書いた慈善の聖女だった。どちらの像も、十八世紀でもっとも影響力のあった数学書のひとつの著者を覆い隠していた。 本 何十年ものあいだ、『解析教程』はヨーロッパで手に入るもっとも完全な微積分の教程だった。イタリアでは何世代もの学生がこれを使った。1775 年の第二巻のフランス語訳と 1801 年のジョン・コルソンの英訳は、本をほかの読者のもとへ運んだ。代数から曲線へ、導関数から積分と微分方程式へというアニェージの選んだ順序は、いまの微積分の授業の順序とほとんど変わらない。 曲線 アニェージの曲線は、思いもよらないところに現れつづけている。 統計学ではコーシー分布として。平均をもたない分布の古典的な例である。 物理学ではローレンツ型の曲線として。スペクトル線や共鳴の形である。 数値解析ではルンゲの関数 $\frac{1}{1 + 25x^2}$ として。1901 年、カール・ルンゲは、この関数を等間隔の点を通る多項式で近似すると、点をふやすほど両端近くの誤差がかえって大きくなることを示した。数値計算法の授業ならどこでも警告として教える「ルンゲ現象」である。 地理学と気象学では、丘の断面の簡単なモデルとして。山を越えて吹く風の研究に使われる。 ミラノのブレラ宮の中庭、アーケードの下にあるマリア・ガエターナ・アニェージの胸像。Giovanni Dall’Orto · Wikimedia Commons · クレジット表示 名前 小惑星 16765 Agnesi と金星のクレーターが彼女の名をもっている。ミラノには彼女の名がついた通りや学校があり、ブレラ宮の中庭には胸像が、記念墓地のファメディオには横顔の像が、亡くなった場所には銘板がある。 マリア・ガエターナ・アニェージが 1799 年に亡くなった場所にある、彼女をしのぶミラノの銘板。Bramfab · Wikimedia Commons · CC BY-SA 4.0 神の数学者 ここ数十年、マッシモ・マッツォッティやポーラ・フィンドレンのような歴史家が、アニェージの世界、つまりカトリックでありながら啓蒙の空気にふれた十八世紀のミラノを再構成し、数学と慈善が二つの別々の人生ではなかったことを示した。アニェージにとって、幾何学を学ぶことは神へと導く理性をきたえる方法であり、貧しい人びとに仕えることは同じ信仰の帰結だった。マッツォッティの本の副題が、この読み方を要約している。アニェージ、神の数学者。 今日微積分を学ぶ人に残されているのは、三十歳で、自分が学んでいたときにあってほしかった本を書き、しかもそれをあまりにみごとに書いたので、ヨーロッパじゅうの数学者が教えるのに使った、という人物の手本である。 練習:ルンゲの関数ルンゲの関数は $y = \frac{1}{1 + 25x^2}$ である。これがアニェージの曲線であることを示し、もとになる円の直径 $a$ を求め、曲線の下の面積全体を計算せよ。 $\frac{1}{1 + 25x^2} = \frac{1/25}{x^2 + 1/25}$ と書く。直径 $a$ のアニェージの曲線は $\frac{a^3}{x^2 + a^2}$ で、$a^2 = \frac{1}{25}$、すなわち $a = \frac{1}{5}$ とすると $\frac{1/125}{x^2 + 1/25}$ になる。これはルンゲの関数のちょうど $\frac{1}{5}$ である。つまりルンゲの関数は、縦方向に 5 倍に引きのばしたヴェルシエラなのである。面積は $5 \cdot \pi a^2 = 5 \cdot \frac{\pi}{25} = \frac{\pi}{5}$。置換 $u = 5x$ を使っても、$\int \frac{dx}{1 + 25x^2} = \frac{1}{5}\int \frac{du}{1 + u^2} = \frac{\pi}{5}$ となる。

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イコシアン・ゲームとハミルトン閉路

1856 年、まだ非可換な代数に取り組んでいたハミルトンは、イコシアン算法を発明した。三つの記号 $\iota$、$\kappa$、$\lambda$ が次の規則に従う。 $$\iota^2 = 1, \qquad \kappa^3 = 1, \qquad \lambda^5 = 1, \qquad \lambda = \iota\kappa.$$今日の言い方では、これらは二十の三角形の面をもつ正二十面体の回転群を生成する。ハミルトンは 1857 年にダブリンで開かれた英国科学振興協会の会合でこの算法を発表し、それが正十二面体、つまり十二の五角形の面と二十の頂点をもつ立体の辺に沿った道筋を表すことに気づいた。 パズル このアイデアを広めるため、ハミルトンは十二面体を平たく押しつぶして盤の上に描き、二十の頂点に穴をあけて、それぞれに都市の名をつけ、番号のついた二十本のピンを添えた。課題は、ある都市から出発し、辺だけをたどって、ほかのすべての都市をちょうど一度ずつ訪れ、出発点に戻ることである。1859 年、彼はロンドンのゲーム製造業者ジョン・ジャックス社に権利を 25 ポンドで売った。ゲームは『イコシアン・ゲーム』として、また『旅人の十二面体』という携帯版として売られたが、商業的には失敗だった。少し根気があれば、基本の課題は数分で解けてしまうのだ。 サンパウロ大学数学統計研究所のマテマテカが所蔵するイコシアン・ゲームの複製。番号のついたピンが、二十の頂点をめぐる旅の順序を示している。Estes Objethos Atelier、撮影 Alisson Ricardo · Wikimedia Commons · CC BY-SA 4.0 やってみよう。文字は、ハミルトンが都市の名に使った子音である。 この対話型の図を使うには JavaScript を有効にしてください。議論の全体は本文にあります。 オイラーは解き、ハミルトンは解けない すべての頂点をちょうど一度ずつ通って出発点に戻る道筋は、今日ハミルトン閉路と呼ばれる。この問いは、オイラーがすべての辺をちょうど一度ずつ渡ろうとしたケーニヒスベルクの橋のいとこのように見える。だが二つはまったく違う。辺については、オイラーが 1736 年に簡単な判定法を与えた。各頂点から何本の辺が出ているかを見ればよい。頂点については、簡単な判定法を誰も知らない。1972 年、リチャード・カープはハミルトン閉路問題を NP 完全問題のリストに入れた。これを速く解く方法を見つけた者は、何千もの難問を速く解く方法を手にし、クレイ研究所から百万ドルを得ることになる。 そのいちばん有名な親戚が巡回セールスマン問題である。ある地図のすべてのハミルトン閉路のうち、どれが最も短いか。配達経路、回路基板の穴あけ、DNA の配列決定などに現れる。 カークマンが先だった ハミルトンより二年早い 1855 年、イギリスの聖職者で数学者のトマス・カークマンは、どの多面体がすべての頂点をちょうど一度ずつ通る閉路をもつかをすでに問い、それが不可能な例も示していた。名前は、より有名で、売り物のゲームをもっていたハミルトンのものになった。 練習:辺を数える正十二面体では、20 個の頂点のそれぞれが 3 本の辺に接している。辺は何本あるか。また、ハミルトン閉路はそのうち何本を使うか。 頂点ごとに数えると $20 \times 3 = 60$ 個の辺の端があり、一本の辺には端が二つあるので、$60 / 2 = 30$ 本である。ハミルトン閉路は 20 個の頂点を通って戻るので 20 本の辺を使い、残りの 10 本は使われない。

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自己増殖オートマトン

晩年のフォン・ノイマンは、哲学のように聞こえる問いを自らに投げかけた。機械は自分自身の複製をつくることができるか。難しさは論理にある。複製をつくるには、機械は自分自身の記述を必要とする。だが記述は機械の一部なので、記述そのものも記述しなければならず、こうして終わりのない後退に陥る。 記述、構成機、複写機 1948 年からの講演でフォン・ノイマンが示した出口は、三つの部品を分けることだった。 任意の機械 $X$ の記述 $D(X)$ を読んで $X$ をつくる構成機 $A$ どんな記述でも、理解することなく複写する複写機 $B$ 二つをつなぐ制御機 $C$ さて、機械 $A + B + C$ に、それ自身の記述 $D(A + B + C)$ を与える。構成機は記述を読んで新しい機械 $A + B + C$ をつくり、複写機は記述の写しをつくって新しい機械に渡す。結果は、自分自身の記述をもった完全な複製である。後退が止まるのは、記述が二通りに使われるからだ。一度は実行すべき命令として、もう一度は読まずに写すテキストとして。 DNA より前に 1953 年、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは DNA の二重らせんを記述した。細胞が行っているのは、まさにフォン・ノイマンが予言したことだった。DNA はリボソームによって読まれてタンパク質がつくられ(構成機)、細胞が分裂するときには解釈されることなく一文字ずつ写される(複写機)。フォン・ノイマンは、生物学が生命のやり方を示すより前に、機械について考えることで増殖の論理構造にたどり着いたのである。 セルの格子 このアイデアを厳密にするため、フォン・ノイマンには機械を組み立てられる単純な「宇宙」が必要だった。ウラムの提案で、彼は小さな正方形からなる無限の格子を使った。各正方形は 29 の状態のどれかにあり、すべてが各ステップで同時に、四つの隣の状態に応じて変わる。この格子の中に、彼はテープを読み、自分自身の複製をつくり、テープを写すことのできる、途方もない数のセルからなる巨大な配置を設計した。この仕事は彼の死の時点で未完成だったが、共同研究者のアーサー・バークスが完成させ、1966 年に『自己増殖オートマトンの理論』という題で出版した。 スタニスワフ・ウラムのロスアラモスの身分証。機械のための宇宙としてセルの格子をフォン・ノイマンに提案したのはウラムだった。Los Alamos National Laboratory · Wikimedia Commons · パブリックドメイン こうした格子は今日セル・オートマトンと呼ばれる。1970 年、イギリスのジョン・コンウェイは、生と死の二つの状態しかなく、規則も一行で済むものを発明した。生きたセルは生きた隣(斜めも数える)が 2 個か 3 個なら生き残る。死んだセルは生きた隣がちょうど 3 個なら誕生する。それ以外は死ぬか、死んだままである。コンウェイがライフゲームと呼んだこの仕組みはきわめて豊かで、その中でも計算機や自己複製する機械を組み立てることができる。 練習:ブリンカーライフゲームで、横一列に並んだ三つの生きたセルは「ブリンカー」をなす。次のステップでそれが縦一列になることを示せ。 真ん中のセルは生きた隣が 2 個なので生き残る。両端のセルは生きた隣が 1 個しかないので死ぬ。真ん中のすぐ上とすぐ下の二つのセルは、生きた隣がちょうど 3 個(横列の三つ)なので誕生する。結果は縦一列の三つである。同じ推論で、次のステップには再び横になり、この模様は永遠に点滅し続ける。

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形態形成:ヒョウの斑点を方程式で

胚は、ほとんど同じ細胞のかたまりとして始まる。それなのに、最後には片手に五本の指ができ、シマウマには縞が、ヒョウには斑点ができる。はじめにすべてが一様なら、形はどこから来るのか。1952 年、発表した最後の大きな論文「形態形成の化学的基礎」で、チューリングは数学的な答えを提案した。生物学者がそれを確かめるには何十年もかかった。 二つの物質、二つの速さ 考え方は、チューリングがモルフォゲンと呼んだ二つの化学物質が組織の中を広がっていくところを想像することである。今日ではふつう次のように説明される。 活性化因子:自分自身の生成を促し、もう一方の生成も促す。 抑制因子:活性化因子を抑える。 二つは互いに反応し、拡散する。つまり、水に落としたインクのように、濃いところから薄いところへ広がる。決定的なのは、抑制因子のほうが活性化因子より速く広がることである。 ある一点に、たまたま活性化因子が少し多く現れたらどうなるかをたどってみよう。そこでは活性化因子も抑制因子もたくさんつくられる。遅い活性化因子はその場に集まったままでいる。速い抑制因子は両側へ逃げていき、近くにもう一つ活性化因子の山ができるのを妨げる。その結果、山のまわりに山のない帯ができ、その先にまた山、また帯と続く。間隔のそろった斑点や縞が、何もないところから生まれるのである。 計算 チューリングは方程式を書き、一様な状態の近くで線形化した。一直線に並んだ組織で、$u$ と $v$ を活性化因子と抑制因子のずれとすると、 $$\begin{aligned} \frac{\partial u}{\partial t}&=a\,u+b\,v+D_u\frac{\partial^2u}{\partial x^2},\\ \frac{\partial v}{\partial t}&=c\,u+d\,v+D_v\frac{\partial^2v}{\partial x^2}. \end{aligned}$$$a$、$b$、$c$、$d$ を含む項が反応、$D_u$ と $D_v$ を含む項が拡散である。波長 $\frac{2\pi}k$ の小さな波が育つか消えるかを見るために、$e^{\lambda t}\cos kx$ という形の解を試す。$q=k^2$ とおくと、行列 $$\begin{pmatrix}a-D_uq&b\\c&d-D_vq\end{pmatrix}$$が得られ、この行列の行列式が負になると波は育つ。 具体的な数をとろう。$a=1$、$b=-1$、$c=2$、$d=-1.5$。拡散がなければ($q=0$)、行列式は $1\cdot(-1.5)-(-1)\cdot2=0.5>0$、トレースは $-0.5<0$ である。一様な状態は安定で、化学反応だけでは模様はまったく生まれない。 ここで拡散を入れ、抑制因子を 10 倍速くする。$D_u=1$、$D_v=10$ とすると、 $$\det(q)=(1-q)(-1.5-10q)+2=10q^2-8.5q+0.5.$$根は $q\approx0.064$ と $q\approx0.786$ である。そのあいだでは行列式は負になり、その波長の波は育つ。いちばん速いのは中央の $q=0.425$ で、波長は $\frac{2\pi}{\sqrt{0.425}}\approx9.6$ である。ふつうは違いをならしてしまう拡散が、ここでは違いを生み出す。だからこの現象は拡散誘導不安定性と呼ばれる。 反応拡散モデルの計算機シミュレーション。チューリングのモデルの親戚であるグレイ=スコット・モデルを使っている。無作為に散らばった斑から出発して、反応の定数を二つ変えるだけで、同じ方程式が規則正しい斑点(左)や曲がりくねった縞(右)を生む。このサイトのために作成したシミュレーション · Euler’s Eyes 計算から動物へ (a) 1952 年にチューリングが計算した、細胞の環の上の模様。(b) マンチェスターの計算機で計算して得た、平らな組織の上の斑点。(c) チーターの毛皮。Philip Ball · Wikimedia Commons · CC BY 4.0 チューリングは計算の一部をマンチェスターの計算機で行い、得られた模様の一つは、ある種の動物に似た不規則なまだら模様だった。どの物質がモルフォゲンなのかを彼は知らず、当時の生物学には確かめる手段がなかった。この考えは何十年も、ほとんど忘れられていた。