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ソフィー・ジェルマン素数と暗号

素数 $p$ について $2p+1$ も素数になるとき、$p$ をソフィー・ジェルマン素数といいます。11 が素数なので 5 はそうです。$15=3\cdot5$ なので 7 はちがいます。列はこう始まります。 $$2,\ 3,\ 5,\ 11,\ 23,\ 29,\ 41,\ 53,\ 83,\ 89,\ 113,\ 131,\ldots$$それぞれに対応する素数 $2p+1$ は安全素数と呼ばれます。$5, 7, 11, 23, 47, 59, 83, \ldots$ ソフィー・ジェルマンはフェルマーについての定理のためにこれらを必要としました。二世紀後、それらはインターネットの接続を守っています。 いつか尽きるのか 100 未満にはソフィー・ジェルマン素数が 10 個、1000 未満には 37 個あります。だんだんまれになりますが、現れつづけます。無限にあることを証明できた人はいません。未解決問題で、$11$ と $13$ のように差が 2 の素数の組が無限にあるかを問う、双子素数予想の仲間です。 鎖 この操作をくり返せることがあります。$2$ から始めると、 $$2\to5\to11\to23\to47,$$ここまですべて素数で、$2\cdot47+1=95$ で途切れます。このような列は、20 世紀のはじめにそれを研究したイギリスの軍人で数学者のアラン・カニンガムにちなんで、カニンガム鎖と呼ばれます。89 から始まる鎖も長く、$89\to179\to359\to719\to1439\to2879$ と六つの素数が続きます。 オイラーとラグランジュの定理 メルセンヌ数 $2^p-1$ は、巨大な素数の候補としていちばん人気があります。オイラーが述べ、ラグランジュが 1775 年に証明したところによると、安全素数はこのお祭りに水をさすことがあります。 $p$ が $p\equiv3\pmod4$ をみたすソフィー・ジェルマン素数なら、$2p+1$ は $2^p-1$ をわり切る。 $p=11$ なら $2p+1=23$ で、実際 $2^{11}-1=2047=23\cdot89$。$p=23$ なら $2^{23}-1=8\,388\,607=47\cdot178\,481$。もしこの形のソフィー・ジェルマン素数が無限にあれば、一挙に無限個のメルセンヌ数がふるい落とされることになります。

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ユークリッド流のピタゴラスの定理

直角三角形において、直角に対する辺の上の正方形は、直角をはさむ辺の上の正方形の和に等しい。 — ユークリッド『原論』命題 I.47 ギリシャ人よりずっと前、ナイル川の氾濫のたびに畑の境界を引きなおしたエジプトの測量師たちは、縄張り師 と呼ばれていました。言い伝えでは、等間隔に 12 の結び目をつけた縄を使い、それを三辺 3、4、5 の三角形に張ると直角ができたといいます。バビロニア人はもっと多くを知っていました。紀元前 1800 年ごろの粘土板 プリンプトン 322 には、辺が整数の直角三角形がならび、なかには 3 367、3 456、4 825 のような大きなものもあります。 このサイトの旧幾何学講座は、いちばん簡単な例から始めていました。 $$3^2+4^2=9+16=25=5^2,\qquad 6^2+8^2=36+64=100=10^2.$$エジプト人やバビロニア人に欠けていたのは、この関係が すべての 直角三角形で成り立つという 証明 でした。伝統はそれを紀元前六世紀のピタゴラスに帰していますが、彼の証明は残っていません。私たちがもっている最も古い証明はユークリッドのもので、第一巻の最後から二番目の命題です。(日本ではこの関係を「三平方の定理」とも呼びます。) 風車の証明 $ABC$ を $A$ で直角となる三角形とし、直角をはさむ辺を $AB=c$、$AC=b$、斜辺を $BC=a$ とします。各辺の上に正方形をつくります。できあがった図が風車に似ているので、この証明はその愛称で呼ばれます。アラビアの数学者たちは「花嫁の椅子」と呼びました。 命題 I.47 の図。A から下ろした高さ(点線)が斜辺の上の正方形を二つの長方形に分ける。左の長方形は AB の上の正方形と、右の長方形は AC の上の正方形と面積が等しい。Euler’s Eyes 作図 ユークリッドの考えは、$A$ を通って $BC$ に垂直な線を引き、$BC$ の上の大きな正方形を二つの長方形に分け、それぞれの長方形が小さな正方形のひとつと面積が等しいことを示すことです。証明に使うのは、すでに証明された二つの事実だけです。 I.4:二辺とそのあいだの角がそれぞれ等しい二つの三角形は合同であり、面積も等しい。 I.41:平行四辺形と底辺と高さが同じ三角形は、平行四辺形の半分の面積をもつ。 左の長方形については、ユークリッドは $B$ を頂点とする二つの三角形を見ます。一つ目は、$B$、$A$、そして下の正方形の $B$ の真下にある頂点でできる三角形。二つ目は、$B$、$C$、そして $AB$ の上の正方形の、$B$ のとなりにあって $A$ でない頂点でできる三角形です。この二つの三角形は、$AB$ の上の正方形の一辺と $BC$ の上の正方形の一辺という二辺が等しく、そのあいだの角も等しくなっています。どちらも三角形の一つの角に直角を足したものです。I.4 により、面積は等しくなります。

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特殊相対性理論:光でできた時計

もし私が光の速さ c、真空中の光速で光線を追いかけるなら、その光線は、空間的には振動しているが静止した電磁場として見えるはずだ。しかし、そんなものはないように思われる。 — アルベルト・アインシュタイン『自伝ノート』(1949) 16 歳のとき、アーラウの学校で、アインシュタインは自分に問いかけました。光線と同じ速さでその横を走ったら、何が見えるだろう。ニュートンの物理学によれば、光は止まって見えるはずです。高速道路でとなりを走る車のように。ところが マクスウェル の方程式は、止まった光を許しません。そこでは光はいつも $c\approx300\,000$ km/s で進むのです。どちらかがまちがっている。どちらなのかを見きわめるのに、アインシュタインは十年かかりました。 二つの原理 1905 年 6 月、アインシュタインは論文「運動物体の電気力学について」を『物理学年報』に送りました。彼は二つの仮定から出発しました。 一定の速さで動くすべての観測者にとって、物理法則は同じである。 がたつかずに走る列車のなかでは、なかで行うどんな実験でも、列車が止まっているのか動いているのかはわからない。 真空中の光の速さは、こうしたすべての観測者にとって同じ $c$ である。 光源や観測者がどう動いていても変わらない。 二つ目は無害に見えますが、じつはとんでもないことです。秒速 100 000 km で光線を追いかけても、光線はやはり秒速 300 000 km で遠ざかっていくと測れるのです。それが可能になるには、何かがゆずらなければなりません。アインシュタインは、ゆずるのは 時間 だと示しました。 光時計 距離 $L$ だけ離れた二枚の平行な鏡のあいだを、光のパルスが往復する時計を考えます。一往復が一刻みです。時計のそばにいる人にとって、一刻みは $$\Delta\tau=\frac{2L}{c}$$です。今度は、この時計を速さ $v$ であなたの前を通りすぎる列車に乗せます。ホームにいるあなたから見ると、光はまっすぐ上下するのではありません。光が一方の鏡からもう一方へ進むあいだに列車は前に進むので、光の道すじは斜めになり、長くなります。 ホームから見た光時計。光が下の鏡から上の鏡へ進むあいだに、時計は v Δt/2 進む。光は L より長い斜めの道 c Δt/2 を進む。Euler’s Eyes 作図 あなたが測った一刻みを $\Delta t$ とすると、半刻みのあいだに光は $c\frac{\Delta t}2$ 進み、列車は $v\frac{\Delta t}2$ 進みます。高さは $L$ のままです。ピタゴラスの定理 より、

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驚異の螺旋とレムニスケート

ライプニッツの微積分を手にしたベルヌーイ兄弟は、曲線狩りに出かけました。曲線ごとに問います。接線はどうか、長さは、面積は、曲率は?こうした曲線の多くはギリシャ人のころから知られていましたが、これらの問いに一般的な規則で答えられるようになったのはこのときからです。そのうち二つの曲線は、永遠にヤコブの名を帯びることになりました。 形の変わらない螺旋 対数 螺旋は、すでにデカルトやトリチェリが研究していました。各点を中心からの距離 $r$ と角 $\theta$ で表す極座標では、 $$r=a\,e^{b\theta}$$です。ひと回りするたびに角は $2\pi$ 増え、半径はいつも同じ倍率 $e^{2\pi b}$ で大きくなります。だから巻きの間隔は等しくありません。どの巻きも、前の巻きより同じ割合で大きいのです。 ここから、ヤコブを魅了した性質が出てきます。螺旋を角 $\alpha$ だけ 回転 させることは、$e^{b\alpha}$ 倍に 拡大 することと同じ効果をもちます。この螺旋の写真を拡大すると、回転しただけの同じ螺旋が現れます。どの縮尺でも自分自身と同じなのです。 左は、ヤコブが墓に望んだ対数螺旋。ひと巻きごとに前より広くなる。右は、石工が刻んだアルキメデスの螺旋。巻きの間隔が等しい。Euler’s Eyes 作図 一定の角 螺旋上の一点で、中心から来る半径と曲線の接線は角 $\psi$ をなします。角 $\theta$ がほんの少し $d\theta$ だけ増えると、その点は半径に垂直な方向に $r\,d\theta$、半径に沿って $dr$ 動きます。したがって $$\tan\psi=\frac{r\,d\theta}{dr}=\frac{r}{dr/d\theta}=\frac{r}{b\,r}=\frac1b.$$$r$ が消えます。角は すべての 点で同じです。そのためこの曲線は 等角螺旋 とも呼ばれます。ランプに対していつも一定の角度を保って飛ぶ虫は、蛾が月に対してそうするといわれるように、こうした螺旋を描いて、最後にはランプに落ちてしまいます。 ヤコブはさらに発見しました。螺旋の曲率中心がつくる曲線は、最初のものと同じ対数螺旋です。中心から出て螺旋で反射した光線も、また同じ螺旋をつくります。どこを見ても、曲線は同じ姿でよみがえりました。彼はこれを spira mirabilis、驚異の螺旋 と名づけました。 オウムガイの殻の断面。ひと巻きごとに部屋がほぼ同じ割合で大きくなり、対数螺旋に近い形をつくる。Florian Elias Rieser · Wikimedia Commons · CC BY-SA 4.0 自然もこの曲線を同じ理由で好みます。オウムガイのように形を変えずに層を足して成長する生き物は、対数螺旋の殻をつくります。多くの銀河の腕や台風の雲も、似た形をしています。 Eadem mutata resurgo ヤコブは螺旋に復活の象徴を見ました。からだは変わっても、人は同じものとしてよみがえる。だから彼は、Eadem mutata resurgo、「変わりながらも、私は同じものとしてよみがえる」という銘とともに、それを墓に刻んでほしいと頼んだのです。石工が刻んだのはアルキメデスの螺旋で、これにはその性質がありません。拡大すると巻きの間隔が広がり、曲線が変わってしまいます。まちがった墓石は今もバーゼル大聖堂にあります。 レムニスケート:横倒しの 8 1694 年、ヤコブは『学術紀要』の論文で新しい曲線を示しました。二つの定点、焦点 $F_1=(-c,0)$ と $F_2=(c,0)$ をとります。楕円では、点から焦点までの距離の 和 が一定です。ヤコブは和を 積 に置きかえました。

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シュヴァリエ・ド・メレのサイコロと公平な分配

シュヴァリエ・ド・メレと名乗っていたアントワーヌ・ゴンボーは、フランス宮廷の文筆家で、熱心な賭博師でもありました。1654 年ごろ、彼はパスカルに賭けについての問いを二つ持ち込みました。パスカルはその問いがとても良いと思い、ピエール・ド・フェルマーに手紙を書きました。確率論はその手紙のやりとりから生まれたのです。 この友人について、パスカルはフェルマーにこう書いています。 彼はとても頭がよいのですが、幾何学者ではありません。それは、ご存じのとおり、大きな欠点です。 — ブレーズ・パスカル、フェルマーへの手紙(1654 年 7 月 29 日) 第一の問題:6 の目と 6 のぞろ目 ド・メレは得をする賭け方を知っていました。サイコロを一つ 4 回振り、少なくとも一回 6 が出るほうに賭けるのです。彼は負けるより勝つほうが多かったのです。 そこで彼はこう考えました。サイコロ二つで 6 のぞろ目が出るのは、サイコロ一つで 6 が出るより 6 倍まれだ。それなら 6 倍多く振れば埋め合わせられる。$4\cdot6=24$ 回です。「サイコロ二つを 24 回振って、少なくとも一回 6 のぞろ目が出る」という賭けは、最初の賭けと同じくらい有利なはずだ、と。 そうはなりませんでした。ド・メレはお金を失い、その理由がわかりませんでした。 正しい計算は、反対の出来事から考えます。サイコロ一つで 6 が出ない確率は $\frac56$ です。独立に 4 回振って一度も 6 が出ない確率は $\left(\frac56\right)^4$ です。したがって $$P(\text{4 回で少なくとも一回 6})=1-\left(\frac56\right)^4=1-\frac{625}{1296}\approx0.518.$$サイコロ二つの出方は $36$ 通りで、6 のぞろ目はそのうち一つだけです。一回振って 6 のぞろ目が出ない確率は $\frac{35}{36}$ です。 $$P(\text{24 回で少なくとも一回 6 のぞろ目})=1-\left(\frac{35}{36}\right)^{24}\approx0.491.$$最初の賭けは 51.8% の割合で勝ち、二つ目は 49.1% しか勝てません。ド・メレの比例の規則はもっともらしく見えましたが、確率はそのようには足し算できないのです。25 回振れば、確率はようやく半分を超えます。$1-\left(\frac{35}{36}\right)^{25}\approx0.506$ です。 賭けているだけで気づけるか? ほとんど無理です。49.1% と 50% の差はとても小さく、確実に気づくには何千回も賭ける必要があります。そのため歴史家たちは、ド・メレが疑ったのは財布ではなく計算のほうだったと考えています。正しいと信じていた二つの規則が違う答えを出したので、どちらが間違っているのかを知りたかったのです。

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積分記号 ∫:和から累積へ

1675 年 10 月 29 日、ライプニッツはパリで面積の問題に取り組んでいました。それまで彼は、イタリアのカヴァリエリにならって、図形のすべての線の和を表すのに omn.(ラテン語 omnia「すべて」の略)と書いていました。ページの途中で、彼はこう書きました。 omn. のかわりに ∫ と書くと便利だろう。 — ライプニッツ、1675 年 10 月 29 日の手稿 記号 $\int$ は、summa(和)の頭文字である長い S です。当時、長い s は手書きではふつうの文字でした。それ以来、この記号が取って代わられたことは一度もありません。 薄切りを足し合わせる ライプニッツの考えは、領域をごく細い縦の薄切りに分けることでした。一枚一枚はほとんど高さ $y$、幅 $dx$ の長方形で、面積は $y\,dx$。全体の面積はすべての薄切りの和です。 $$\int y\,dx.$$この記号は一度にすべてを語ります。高さ($y$)に微小な幅($dx$)を掛けたものを全部足せ($\int$)。和の範囲は下と上に書きます。$\displaystyle\int_a^b f(x)\,dx$ は $x=a$ から $x=b$ までの薄切りの和です。 この対話型の図を使うには JavaScript を有効にしてください。議論の全体は本文にあります。 「積分」と名づけたのは誰? ライプニッツは自分の発明を calculus summatorius、つまり和の計算と呼んでいました。積分(integral)という言葉は 1690 年のヤコブ・ベルヌーイの論文に現れました。ライプニッツとヨハン・ベルヌーイはどちらの名前を使うか話し合い、最終的に「積分」に落ち着きましたが、記号はライプニッツの S のままでした。 差を足し合わせると全体に戻る 伝記で紹介した、ホイヘンスがライプニッツに出した問題を覚えていますか? そこでは差の和がほとんど打ち消し合いました。 $$(F_1-F_0)+(F_2-F_1)+(F_3-F_2)+\cdots+(F_n-F_{n-1})=F_n-F_0.$$ある量の小さな変化をすべて足し合わせると、残るのは全体の変化、つまり最後の値から最初の値を引いたものだけです。ライプニッツは、無限に小さな差でも同じことが起こると気づきました。$dF=f(x)\,dx$ なら、 $$\int_a^b f(x)\,dx=\int_a^b dF=F(b)-F(a).$$言いかえれば、$\int$ と $d$ は互いを打ち消し合うのです。足し算と引き算のように。これが微積分の基本定理を、もっとも短く書いたものです。ニュートンは流率の道を通って同じ結論に達しました。

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面積と積分:流率の逆の道

曲線で囲まれた図形の面積を測ることは、数学でもっとも古い問題の一つです。紀元前 250 年ごろ、アルキメデスは放物線の切片の面積が、その中に描いた三角形の面積の $\frac43$ であることを示しました。天才的な成果ですが、いわばオーダーメイドで、新しい曲線ごとに新しいアイデアが必要でした。 17 世紀には、フェルマー、カヴァリエリ、ウォリスらが、多くの $n$ について $y=x^n$ の下の面積をすでに計算できました。欠けていたのは一般的な規則です。そしてもう一つ欠けていたのが、ニュートンとライプニッツがそれぞれのやり方でたどり着いた洞察でした。面積を求めることと変化率を求めることは、互いに逆の操作である。 面積は増えていく量 曲線 $y=f(x)$ の下で、$0$ からある点 $x$ までの面積を考え、$A(x)$ と書きます。右端を $x$ から $x+h$ まで押し広げると、面積は細い帯の分だけ増えます。 この帯はほとんど高さ $f(x)$、幅 $h$ の長方形です。したがって $$A(x+h)-A(x)\approx f(x)\cdot h\qquad\Longrightarrow\qquad\frac{A(x+h)-A(x)}{h}\approx f(x).$$帯が細いほど近似はよくなります。極限をとると、 $$A'(x)=f(x).$$ニュートンの言葉で言えば、面積の流率は曲線の高さです。面積は、高さが与える速さでちょうど増えていきます。面積を求めるには、流率が $f$ になる関数を見つければよい。つまり逆向きにたどればよいのです。 厳密にするには、帯を二つの長方形ではさみます。一つはその区間での $f$ の最小の高さ、もう一つは最大の高さをもつ長方形です。$f$ が連続なら、$h\to0$ のときどちらの高さも $f(x)$ に近づき、帯はその間にはさみ込まれます。 『解析について』の規則 1669 年、ニュートンは『解析について』(De analysi)という短い論文を書きました。その第一の規則は、今日の記号で言えば、$y=ax^{m/n}$ の下で $0$ から $x$ までの面積が $$\frac{an}{m+n}\,x^{(m+n)/n}$$であるというものです。複雑に見えますが、おなじみの規則です。$x^k$ の下の面積は $\dfrac{x^{k+1}}{k+1}$。たとえば $y=x^2$ の $0$ から $2$ まででは、 $$\int_0^2 x^2\,dx=\left[\frac{x^3}{3}\right]_0^2=\frac{8}{3}.$$アルキメデスなら、この数にたどり着くのに一つの証明がまるごと必要でした。この規則なら 1 行です。 面積としての対数 この規則を一般化された二項式と組み合わせて、ニュートンは誰も計算できなかった面積を求めました。双曲線 $y=\dfrac{1}{1+x}$ はべきの和になります。 $$\frac{1}{1+x}=1-x+x^2-x^3+\cdots$$あとは各べきの下の面積を項ごとに求めるだけです。 $$\int_0^x\frac{dt}{1+t}=x-\frac{x^2}{2}+\frac{x^3}{3}-\frac{x^4}{4}+\cdots$$この面積が自然対数 $\ln(1+x)$ です。$x=0.1$ とすると、4 項で $0.0953083$、正しい値は $0.0953102$ です。

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幾何学の基礎にある仮説について

無限小における幾何学の仮説の妥当性の問題は、空間の計量関係の内的な根拠の問題と結びついている。 — ベルンハルト・リーマン『幾何学の基礎にある仮説について』(1854) 1854 年 6 月 10 日、リーマンはゲッティンゲンの学部で講演『幾何学の基礎にある仮説について』をおこなった。哲学者や歴史家も含む聴衆に向けて、ほとんど数式を使わずに書かれたものである。この原稿が出版されたのは彼の死後の 1868 年だったが、それは幾何学を変えた。 内側から見る幾何学 出発点は、ガウスの驚異の定理だった。曲面の曲率は、その曲面のなかに住む者が、外から眺めることなく距離を測るだけで測定できる。球面の上にすむ二次元の生き物は、三角形を描いて角を測れば、自分の面が曲がっていることに気づくだろう。 リーマンはこの考えを極限まで押し進めた。ふつうの空間のなかの曲面のかわりに、多様体(Mannigfaltigkeiten)を考えたのである。座標 $x_1, x_2, \ldots, x_n$ で記述される任意の次元の空間で、より大きな何かに埋めこまれている必要はない。多様体に幾何学を与えるのは、ごく近い二点のあいだの距離を測る規則である。 計量 ふつうの平面では、隣りあう点のあいだの距離 $ds$ は三平方の定理で $ds^2 = dx^2 + dy^2$ と与えられる。リーマンは、一般には無限小の距離はもっと一般的な二次式で与えられると提案した。 $$ds^2 = \sum_{i,j} g_{ij}(x)\,dx_i\,dx_j.$$ここで係数 $g_{ij}$ は点ごとに変わってよい。これらの係数が計量をなす。たとえば半径 $R$ の球面上で、緯度 $\varphi$、経度 $\lambda$ を使うと $$ds^2 = R^2\,d\varphi^2 + R^2\cos^2\varphi\,d\lambda^2.$$$\cos\varphi$ が小さい極の近くでは、経度一度ぶんの長さは短くなる。 リーマンは計量から、各点、各方向での曲率を定義した。曲率が一定の空間は三種類ある。曲率ゼロ(エウクレイデスの幾何学)、正(平行線のない球面のような幾何学)、負(ロバチェフスキーとボヤイが発見した、平行線が無限にある双曲幾何学)である。 では現実の空間は 講演の最後で、リーマンは大胆な指摘をした。物理的な空間の幾何学がどんなものかは、前もってはわからない。それは論理ではなく経験によってしか決められず、物体にはたらく「力」に依存するかもしれない。ごく小さなスケールやごく大きなスケールでは、エウクレイデスの幾何学が成り立たなくなるかもしれないというのである。 六十年後、アルベルト・アインシュタインは、自分が必要としていた道具をまさにリーマンの幾何学のなかに見いだした。1915 年の一般相対性理論では、時空は計量 $g_{\mu\nu}$ をもつ四次元の多様体であり、重力は力ではなく、物質とエネルギーが生みだすその計量の曲がりなのである。 ガウスの選択 リーマンは講演の題目を三つ出し、慣例どおりガウスが電気についての二つのうちのどちらかを選ぶと思っていた。ところがガウスは、自分でも何十年も考えながら発表していなかった幾何学についての三つめを選んだ。別の題目をあてにしていたリーマンは、原稿の準備に何週間も集中して取り組まなければならなかった。デデキントによれば、講演の帰り道、ガウスは彼にしては珍しく感情をこめて、聞いた考えの深さについて語ったという。 練習:球面上の三角形地球上で、一つの頂点が北極に、ほかの二つが赤道上の経度 0° と 90° にある三角形を考える。内角の和はいくらか。それは面積とどう関係するか。 赤道上では、経線は赤道と 90° の角をなす。北極では、経度 0° と 90° の経線のなす角は 90° である。和は 270°、すなわち $\frac{3\pi}{2}$ で、$\pi$ ではない。超過分 $\frac{3\pi}{2} - \pi = \frac{\pi}{2}$ に $R^2$ を掛けると三角形の面積 $\frac{\pi}{2}R^2$ になり、これは球面全体 $4\pi R^2$ のちょうど $\frac{1}{8}$ である。曲率が一定の $\frac{1}{R^2}$ である面では、角の超過は面積を $R^2$ で割ったものに等しい。

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ラプラス方程式

惑星がある一点をどう引きつけるかを知るには、惑星の各部分の引力をすべて足さなければならない。各部分はそれぞれ違う向きに引くし、力を足すのは手間がかかる。力はベクトルで、それぞれ三つの成分をもつからだ。十八世紀の数学者たちは近道を見つけ、ラプラスはそれを道具に仕立てた。 矢印ではなく数を足す 一点に集中した質量 $M$ について、次の数を考える。 $$V = \frac{M}{r}.$$ここで $r$ は質量までの距離である(定数 $G$ は省く)。のちにポテンシャルと呼ばれるこの数は、力についての情報をすべてもっている。各方向の引力の成分は、その方向への $V$ の微分なのである。そして大きな利点は、質量がいくつあってもポテンシャルは数としてそのまま足せることだ。まず惑星のすべての部分のポテンシャルを足し、それから微分すれば力が得られる。 方程式 ラプラスは、質量の外のどの点でも、ポテンシャルがとても簡単な方程式に従うことに気づいた。 $$\frac{\partial^2 V}{\partial x^2} + \frac{\partial^2 V}{\partial y^2} + \frac{\partial^2 V}{\partial z^2} = 0.$$今日では $\nabla^2 V = 0$ と書き、記号 $\nabla^2$ をラプラシアンと呼ぶ。ラプラスは 1782 年、惑星の形についての論文でこの方程式を球座標で発表し、1787 年には土星の環を研究するなかで上のような直交座標の形で示した。 原点に置いた一つの質量で確かめてみる価値がある。$r = \sqrt{x^2+y^2+z^2}$、$V = \frac{1}{r}$ とすると $$\frac{\partial V}{\partial x} = -\frac{x}{r^3}, \qquad \frac{\partial^2 V}{\partial x^2} = -\frac{1}{r^3} + \frac{3x^2}{r^5}.$$三方向を足すと $$\nabla^2 V = -\frac{3}{r^3} + \frac{3(x^2+y^2+z^2)}{r^5} = -\frac{3}{r^3} + \frac{3}{r^3} = 0.$$方程式は線形だから、解の和もまた解である。どんな質量の集まりのポテンシャルも、その外ではこの方程式を満たす。ラプラス方程式を満たす関数を調和関数という。

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放物線の求積

ギリシア人にとって図形を「求積する」とは、同じ面積をもつ正方形か、ほかの直線で囲まれた図形を見つけることだった。円の求積は不可能な問題の代表である。アルキメデスは曲線で囲まれた図形の求積に成功した。放物線の弓形、つまり放物線と一本の弦にはさまれた領域である。 直線と直角円錐の切り口とで囲まれたどの弓形も、その弓形と同じ底辺と同じ高さをもつ三角形の三分の四である。 — アルキメデス『放物線の求積』、ドシテオスへの手紙 「直角円錐の切り口」とは、アルキメデスが放物線につけていた名前である。この本はコノンの死後にドシテオスにささげられた。アルキメデスは最初にこの結果をコノンに見せたのだという。 三角形のなかの三角形 弦を引き、弧の上で接線が弦に平行になる点をとる。三つの点は面積 $T$ の三角形をつくり、弓形の大部分を占める。三角形の辺と曲線のあいだに、小さな領域が二つ残る。それぞれで同じことをする。三つ目の頂点が放物線の上にある新しい三角形を描くのである。さらに小さな領域が四つ残り、以下同様に続く。 アルキメデスが発見したのは、新しい三角形の組は、合わせてもとの三角形の面積の四分の一になるということだった。したがって第一段階で $T$、第二段階で $\frac{T}{4}$、第三段階で $\frac{T}{16}$ が得られ、面積全体は $$T + \frac{T}{4} + \frac{T}{16} + \frac{T}{64} + \cdots$$となる。 この対話型の図を使うには JavaScript を有効にしてください。議論の全体は本文にあります。 無限に多くの項を足す アルキメデスは「無限の和」とは言わず、無限を注意深く避けた。そのかわりに、有限の和についての事実を証明した。項の数がいくつであっても $$1 + \frac{1}{4} + \frac{1}{16} + \cdots + \frac{1}{4^n} + \frac{1}{3}\cdot\frac{1}{4^n} = \frac{4}{3}.$$つまり $\frac{4}{3}$ に届くまでに足りない分は、いつも最後の項の三分の一で、それはいくらでも小さくできる。そのうえで二重の背理法により、弓形の面積は $\frac{4}{3}T$ より大きくも小さくもありえないことを示した。これがエウドクソスから受けついだ取りつくし法であり、極限の概念の直接の祖先である。 微積分で確かめる 今日の道具を使えば、計算はすぐにできる。放物線 $y = 1 - x^2$ と、$x$ 軸上の $-1$ から $1$ までの弦について $$\int_{-1}^{1} (1 - x^2)\,dx = \left[x - \frac{x^3}{3}\right]_{-1}^{1} = \frac{4}{3}.$$内接三角形は底辺 2、高さ 1 で、面積は $T = 1$ である。比はちょうど $\frac{4}{3}$ で、アルキメデスがニュートンとライプニッツより十九世紀も前に証明したとおりである。