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コーシーの生涯

年表 17898 月 21 日、バスティーユ陥落の五週間後にパリで生まれる。 1794恐怖政治のさなか、一家はアルクイユに避難し、ラプラスの隣人となる。 1805エコール・ポリテクニークに入学試験二位で入学する。 1810ナポレオンの軍港工事の技師としてシェルブールに赴く。 1813体をこわしてパリに戻り、フェルマーの多角数定理を証明する。 1816国王の勅令により、モンジュに代わって科学アカデミー会員に任命される。 1821エコール・ポリテクニークの『解析教程』を出版する。 1825虚数の限界のあいだでとった定積分についての論文を提出する。 1830ルイ=フィリップへの忠誠の宣誓を拒み、亡命する。 1833プラハで、シャルル十世の孫ボルドー公の家庭教師となる。 1838パリに戻る。 1848新しい共和政が宣誓を廃止し、翌年ソルボンヌの教授職に就く。 18575 月 23 日、ソーで 67 歳で死去。 革命の子 オーギュスタン=ルイ・コーシーは 1789 年 8 月 21 日にパリで生まれた。バスティーユは 7 月 14 日に陥落しており、父ルイ=フランソワ・コーシーはパリ警察の高官だった。旧体制のこの職は、一夜にして危険なものになった。1794 年、恐怖政治のさなか、一家はパリの南、アルクイユにあった田舎の家に逃れた。そこで一家は飢えと貧しさを経験した。オーギュスタンはひよわな子どもで、病弱さは生涯ついてまわった。 教養のある父は子どもたちを自宅で教えた。ラテン語とギリシア語をたっぷりと、そして熱心なカトリックの信仰を。オーギュスタンはこの信仰を最後まで持ちつづけた。アルクイユでの隣人は数学者ピエール=シモン・ラプラスと化学者クロード・ルイ・ベルトレで、二人は自宅に科学者のサークルを集めていた。 1799 年のナポレオンのクーデタのあと、父は元老院の事務総長に任命され、リュクサンブール宮に執務室をもった。元老院議員のなかに、当時存命の最大の数学者ジョゼフ=ルイ・ラグランジュがいた。彼は少年に会い、強い印象を受けた。 この小さな若者が見えますか。彼はいずれ、われわれ幾何学者をみな追い越してしまうでしょう。 — ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、クロード=アルフォンス・ヴァルソンの記述による(1868) ラグランジュは父親に、少年が 17 歳になるまで数学の本を開かせず、まずしっかりした文学の教育を与えるよう勧めたという。さもないと、才能が時期より早く彼を連れ去ってしまうからだ。父はこの助言にしたがった。パンテオン中央学校で、オーギュスタンはラテン語とギリシア語の詩の賞をとった。 シェルブールの技師 1805 年、16 歳のコーシーはエコール・ポリテクニークに入学試験二位で入った。二年後、土木工学の学校である国立土木学校に進んだ。1810 年、ノルマンディー海岸のシェルブールに派遣された。ナポレオンはそこで、イギリスとの戦争のための大きな軍港を建設していた。伝記作者ヴァルソンによれば、彼は荷物のなかに、ラプラスの『天体力学』、ラグランジュの『解析関数論』、ウェルギリウス、そして『キリストにならいて』を入れていった。 昼は一日じゅう工事現場で働き、夜は数学をした。1811 年には、ルジャンドルとマリュスが出した凸多面体についての問題を解き、1812 年には行列式についての長い論文を書いた。1813 年、疲れはてて病を得た彼はパリに戻った。同じ年、フェルマーが 1638 年に証明なしで述べていた多角数定理を証明した。24 歳にして、彼はすでにヨーロッパじゅうに知られていた。 1840 年ごろのオーギュスタン=ルイ・コーシー。ジャン・ロレール作とされる肖像で、現在はソー城にある。Jean Roller · ウィキメディア・コモンズ · パブリックドメイン モンジュの席 ナポレオンが倒れてブルボン家が戻ると、革命と結びついた科学者たちは遠ざけられた。1816 年、国王の勅令がラザール・カルノーとガスパール・モンジュを科学アカデミーから追放し、モンジュの席にコーシーを任命した。筋金入りの王党派だったコーシーはためらわずに受けいれ、多くの同僚はそのことをけっして許さなかった。同じ年、彼は液体表面の波の伝播についての研究でアカデミーの大賞を受け、エコール・ポリテクニークの解析学の教授となった。 1818 年、書店と出版業を営む一族のアロイーズ・ド・ビュールと結婚し、二人の娘をもうけた。それにつづく数年がもっとも創造的な時期だった。1821 年の『解析教程』、1823 年の『無限小計算講義要録』、1822 年の固体の応力の理論、そして 1825 年の複素平面上の積分である。 しかし講義は問題だった。コーシーが求める厳密さを、将来技師になる学生たちは理解もしなければ、望みもしなかった。学校の管理者は、彼が証明に時間をかけすぎると苦情を言った。1826 年、彼は自分だけの雑誌『数学演習』を創刊し、号を重ねるごとに、ひとりですべてを書いた。 コーシーが読まなかった原稿 コーシーは、アカデミーに送られる重要な研究のほとんどすべての当然の査読者だった。そのうち二つは、彼の手のなかでたどった運命によって有名になった。1826 年、ノルウェーのニールス・ヘンリク・アーベルは積分についての大論文を提出した。コーシーはそれを家に持ち帰り、書類のあいだに置き忘れた。論文が出版されたのは 1841 年、アーベルの死から十二年後のことだった。1829 年には、エヴァリスト・ガロアの方程式についての研究も、報告なしに彼の手を通りすぎた。この件では、コーシーがガロアに、論文をまとめ直して大賞に応募するよう勧めたらしい形跡があり、それなら励ましの身ぶりだったことになる。しかしどちらの場合も、二人の若い天才は自分の仕事が認められるのを見ずに死んだ。 亡命 1830 年 7 月、革命がシャルル十世を倒し、ルイ=フィリップを王位につけた。すべての公務員は新しい王に忠誠を誓わなければならなかった。コーシーは拒んだ。彼にとって、ブルボン家に立てた誓いは破れないものだった。彼はすべての職を失い、9 月にフランスを離れた。まずスイスへ、それからトリノへ向かい、ピエモンテ王は彼のために理論物理学の講座を設けた。1831 年、トリノで、今日彼の名がついている積分公式を書いた。

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多角数定理

ギリシア人はすでに小石を図形に並べていた。1、3、6、10 個の小石で三角形が、1、4、9、16 個で正方形が、1、5、12、22 個で五角形ができる。これらが多角数である。 公式 $k$ 角数の $n$ 番目は、1 から始まって $k - 2$ ずつ増える等差数列を足し合わせて得られる。 $$P_k(n) = 1 + (k-1) + (2k-3) + \cdots = \frac{n\,\big((k-2)n - (k-4)\big)}{2}.$$$k = 3$ なら三角数 $\frac{n(n+1)}{2}$、つまり 1, 3, 6, 10, 15, … である。$k = 4$ なら平方数 $n^2$。$k = 5$ なら五角数 $\frac{n(3n-1)}{2}$、つまり 1, 5, 12, 22, 35, … である。ゼロも数に入れて、$P_k(0) = 0$ とする。 フェルマーの主張 1638 年、メルセンヌへの手紙のなかで、そしてのちにはディオファントスの本の余白への書きこみで、ピエール・ド・フェルマーは「非常に美しく、まったく一般的な」性質を発見したと主張した。 すべての数は、三角数であるか、二つまたは三つの三角数の和である。平方数であるか、二つ、三つ、または四つの平方数の和である。五角数であるか、二つ、三つ、四つ、または五つの五角数の和である。以下無限につづく。 — ピエール・ド・フェルマー、ディオファントスへの書きこみ(1638 年ごろ) 例によって、フェルマーは証明を残さなかった。平方数の場合はオイラーを四十年間悩ませ、1770 年にラグランジュが解決した。三角数の場合は 1796 年にガウスが証明した。彼は日記に喜びをこめて「ΕΥΡΗΚΑ! num = Δ + Δ + Δ」と書いた。五角数、六角数、そしてそのほかすべては未解決のままだった。

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行列式と置換

1812 年 11 月 30 日、シェルブールから来た若い技師が、フランス学士院で長い題の論文を読みあげた。変数をたがいに入れかえたとき、大きさが等しく符号が反対の二つの値しかとりえない関数について。この題の背後にあったのは、行列式の最初の一般理論だった。 符号を変える関数 三つの変数 $a_1, a_2, a_3$ と、差の積 $$\Delta = (a_2 - a_1)(a_3 - a_1)(a_3 - a_2)$$を考える。$a_1$ と $a_2$ を入れかえると、各因子はそのままか符号を変えるかで、全体として $\Delta$ は $-\Delta$ になる。どの二つの変数を入れかえても同じである。変数の置換は入れかえの列なので、$\Delta$ に $+1$ か $-1$ を掛ける。置換は偶か奇かのどちらかである。 コーシーはこの観察を使って、ライプニッツ、クラメール、ヴァンデルモンド、ラプラスが連立一次方程式を解くときに見つけていた式を整理した。彼は $n^2$ 個の係数を、二つの添字 $a_{i,j}$ をもつ正方形の表に並べ、各行と各列から一つずつ要素をとった積すべてに、対応する置換の符号をつけて足したものとして行列式を定義した。 $$\det\begin{pmatrix} a_{1,1} & a_{1,2} \\ a_{2,1} & a_{2,2}\end{pmatrix} = a_{1,1}a_{2,2} - a_{1,2}a_{2,1}.$$「行列式(déterminant)」という言葉はガウスに由来する。ガウスは二次形式についてこの言葉を使っていた。今日の意味に定着させたのはコーシーである。 積 論文の主要な結果は積の定理である。$C$ が $A$ と $B$ を行と列で掛けて得られる表なら、 $$\det C = \det A \cdot \det B.$$ジャック・ビネも同じ年に同じ定理を発表しており、長方形の表に対する一般形は、今日コーシー=ビネの公式とよばれる。数で確かめよう。 $$A = \begin{pmatrix} 2 & 1 \\ 1 & 3 \end{pmatrix}, \quad B = \begin{pmatrix} 1 & 4 \\ 2 & 1 \end{pmatrix}$$とすると、$\det A = 6 - 1 = 5$、$\det B = 1 - 8 = -7$ である。積は

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極限と連続

十八世紀、微積分は強力で、少し謎めいた機械だった。オイラーは発散級数を足し合わせて、そこから正しい結果を引き出した。ラグランジュはすべてをべき級数の上に築こうとした。本は「無限に小さい」量について語り、それは都合のよいときにはゼロで、都合の悪いときにはゼロではなかった。うまくいってはいたが、なぜうまくいくのかを正確に説明できる者はいなかった。 『解析教程』 1821 年、コーシーは『王立エコール・ポリテクニーク解析教程』を出版した。将来の技師たちに彼が行っていた講義である。序文で彼は、解析学に「幾何学で求められる厳密さのすべて」を与えるつもりだと宣言した。すべてはひとつの定義から始まる。 同じ変数につぎつぎと与えられる値が、ある定まった値に限りなく近づき、ついにはそれとの差を望むだけ小さくできるとき、この最後の値を他のすべての値の極限という。 — オーギュスタン=ルイ・コーシー『解析教程』(1821) 1821 年の『解析教程』の扉。第一部、代数解析。コーシーは土木技師、エコール・ポリテクニーク教授、科学アカデミー会員として署名している。Augustin-Louis Cauchy · ウィキメディア・コモンズ · CC0 ここから、無限小はもはや謎めいた量ではなくなる。極限がゼロである変数にすぎない。たとえば、$n$ が大きくなるとき $\frac{1}{n}$ は無限小である。どんな小さな数を与えても、$\frac{1}{n}$ はいずれそれより小さくなり、二度と戻ってこないからだ。 連続関数 二つめの定義は連続性である。オイラーにとって、連続関数とはただひとつの式で与えられる関数のことだった。コーシーはこれを、関数のふるまいに目を向ける別の考えに置きかえた。 与えられた二つの限界のあいだにある x の各値に対して、差 f(x + α) − f(x) の数値が α の数値とともに限りなく減少するならば、関数 f(x) はその限界のあいだで連続である。 — オーギュスタン=ルイ・コーシー『解析教程』(1821) 今日の言葉でいえば、変数の小さな増加は関数の小さな変化しか生まない。四十年後、ワイエルシュトラスはこれをすべての学生が知っている文字で書いた。任意の $\varepsilon > 0$ に対して $\delta > 0$ が存在し、$|\alpha| < \delta$ ならつねに $|f(x+\alpha) - f(x)| < \varepsilon$ となる。この文字そのものは、すでにコーシーの 1823 年の証明に現れている。 中間値の定理 この定義を手にして、コーシーは誰もが明らかだと思っていた事実を証明した。$f$ が $[a, b]$ で連続で、$f(a)$ と $f(b)$ が異なる符号をもつなら、$a$ と $b$ のあいだに $f$ がゼロになる点がある。チェコのベルナルト・ボルツァーノは 1817 年に証明を発表していたが、ほとんど誰にも読まれなかった。

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導関数と積分

『解析教程』の二年後、コーシーは『王立エコール・ポリテクニークにおける無限小計算講義要録』(1823)を出版した。四十の短い講義で、彼は微分学と積分学を極限の考えで建て直した。これは本質的に、微積分の教科書が今日でもしたがっている筋道である。 導関数 ラグランジュにとって、$f$ の導関数とは、$f(x + i)$ のべき級数における $i$ の係数だった。コーシーはそれを極限として定義した。 $$f'(x) = \lim_{i \to 0} \frac{f(x + i) - f(x)}{i}.$$$f(x) = x^2$ なら、$\frac{(x + i)^2 - x^2}{i} = \frac{2xi + i^2}{i} = 2x + i$ で、これは $2x$ に向かう。$i$ が「無限に小さい」と仮定する必要も、何かを捨てる必要もない。$i \neq 0$ で商を計算し、それがどこへ向かうかを見ればよい。 積分 それまで、積分するとはおもに原始関数を見つけることだった。積分は微分の逆だったのである。コーシーは順序を逆にし、積分を直接定義した。$f$ が $[x_0, X]$ で連続なとき、区間を点 $x_0 < x_1 < \cdots < x_n = X$ で分け、和 $$S = (x_1 - x_0) f(x_0) + (x_2 - x_1) f(x_1) + \cdots + (X - x_{n-1}) f(x_{n-1})$$をつくる。コーシーは、すべての小区間が小さくなるとき、$S$ が区間の分け方によらない極限に近づくことを証明した。この極限が積分 $\int_{x_0}^{X} f(x)\,dx$ である。三十年後、リーマンはこの定義を不連続な関数にまで広げ、各小区間で任意の点を選べるようにした。

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複素平面上の積分

十八世紀の終わり、オイラーとラプラスは、むずかしい実積分を大胆な技で計算していた。実変数を複素変数に置きかえ、計算をしてから実数に戻るのである。ラプラスはこれを「実から虚への移行」とよんだ。結果は合っていたが、この技がいつ正当なのかは誰にも言えなかった。この問いに答えるために、25 歳のコーシーは 1814 年、定積分についての論文をアカデミーに提出した。それが出版されたのは 1827 年で、しかもそれはほんの始まりにすぎなかった。 平面で微分できる関数 複素関数 $f(z)$($z = x + iy$)は、$f = u + iv$ と書ける。ここで $u$ と $v$ は $x$ と $y$ の実関数である。$f$ が複素の意味で導関数をもつには、$u$ と $v$ がコーシー=リーマンの方程式をみたさなければならない。 $$\frac{\partial u}{\partial x} = \frac{\partial v}{\partial y}, \qquad \frac{\partial u}{\partial y} = -\frac{\partial v}{\partial x}.$$この方程式はダランベールとオイラーにすでに現れていた。コーシーはそれを理論の中心にすえ、三十年後にリーマンはそれを出発点にした。$f(z) = z^2 = (x^2 - y^2) + i\,(2xy)$ では、$u_x = 2x = v_y$、$u_y = -2y = -v_x$ である。 積分定理 1825 年、コーシーは『虚数の限界のあいだでとった定積分についての論文』を出版した。平面上の点 $z_0$ から点 $z_1$ まで積分するには、二点を結ぶ道を選ばなければならない。中心となる定理は、道は関係ないというものである。ただし、一方の道を他方に変形するときに掃く領域で、関数が有限かつ連続でありつづけるかぎりにおいてである。別のいい方をすれば、やっかいな点のまわりをまわらない閉じた曲線にそった積分はゼロになる。

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弾性体の応力

コーシーは技師であることをやめなかった。1822 年、クロード=ルイ・ナヴィエは分子間の力にもとづく弾性固体の理論をアカデミーに提出し、オーギュスタン・フレネルは光を弾性媒質であるエーテルの横振動として説明していた。アカデミーで二人の同僚だったコーシーは、これらの仕事を間近で追っていた。1822 年 9 月 30 日、彼はアカデミーで、分子を必要としない新しい理論を発表した。 想像上の切り口 荷重を受けた梁、橋、柱を思い浮かべよう。内部に一点をとり、そこを通る小さな平らな切り口を想像する。その垂直な向きを $\mathbf{n}$ とする。切り口の一方の側の物質は、もう一方の側の物質を引いたり押したりする。この切り口での単位面積あたりの力はベクトル $\mathbf{t}$ で、コーシーはそれを「圧力」とよび、今日では応力ベクトルとよぶ。 このベクトルは切り口に垂直とはかぎらない。垂直な部分は垂直応力で、圧縮したり引き伸ばしたりする。平行な部分はせん断応力で、二つの面をたがいにすべらせようとする。そして同じ点のまわりで切り口を回すと、$\mathbf{t}$ も変わる。 コーシーの定理 コーシーの発見は、この依存関係が考えうるもっとも単純なもの、つまり線形だということである。数の表 $\sigma$ があって、どんな向き $\mathbf{n}$ に対しても $$\mathbf{t} = \sigma\,\mathbf{n}, \qquad \sigma = \begin{pmatrix} \sigma_{xx} & \sigma_{xy} & \sigma_{xz} \\ \sigma_{xy} & \sigma_{yy} & \sigma_{yz} \\ \sigma_{xz} & \sigma_{yz} & \sigma_{zz} \end{pmatrix}$$となる。表は対称なので、六つの数があれば、その点を通るあらゆる切り口での力がわかる。これがコーシーの応力テンソルである。 論法は四面体の論法である。三つの面が座標平面に平行で、四つめの面が $\mathbf{n}$ に垂直な、ごく小さな四面体を切り出す。面にかかる力は面積に比例し、面積は大きさの二乗で小さくなる。重さや慣性は体積に比例し、体積は大きさの三乗で小さくなる。ごく小さな四面体では面にかかる力だけが効き、それらはつり合わなければならない。各座標面の面積は、斜めの面の面積に $\mathbf{n}$ の成分のひとつを掛けたものなので、つり合いからちょうど $\mathbf{t} = \sigma\mathbf{n}$ が出てくる。 平面での例 平面では、表は三つの数からなる。メガパスカル単位で $$\sigma = \begin{pmatrix} 3 & 1 \\ 1 & 1 \end{pmatrix}$$としよう。縦の切り口では $\mathbf{n} = (1, 0)$ で、$\mathbf{t} = (3, 1)$。垂直応力 3(引張り)、せん断応力 1 である。横の切り口では $\mathbf{n} = (0, 1)$ で、$\mathbf{t} = (1, 1)$。垂直応力 1、せん断応力 1 である。図で切り口を回し、二つの成分を追ってみよう。

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コーシーの遺産

コーシーは狂っていて、彼とはどうにも話が通じない。それでも、いま数学をどうやるべきかを知っているのは彼なのだ。 — ニールス・ヘンリク・アーベル、ホルンボエへの手紙(1826) コーシーはおよそ 800 編の論文と七冊の本を出版した。科学アカデミーが編集した『全集』は、1882 年から 1974 年にかけて、分厚い 27 巻で刊行された。数学者のなかで、これに匹敵する量の仕事を残したのは、オイラーとごくわずかな人だけである。 彼の名を冠するもの コーシー列と、収束についてのコーシーの判定条件。カントールによる実数の定義の土台である。 べき根判定法、凝集判定法、二つの級数のコーシー積。 コーシー=シュワルツの不等式と、平均の不等式のコーシーによる証明。 ロピタルの定理を正当化するコーシーの平均値の定理。 コーシー=リーマンの方程式、コーシーの積分定理、コーシーの積分公式、留数定理。 コーシーの主値。やっかいな点のまわりを対称に切りとることで、$\int_{-1}^{1} \frac{dx}{x}$ のような積分に意味を与える。 微分方程式のコーシー問題。初期値が解を決めるかを問う。そして、解析関数についてそれに答えるコーシー=コワレフスカヤの定理。 固体力学のコーシーの応力テンソルと、光学のコーシーの分散公式。 行列式のコーシー=ビネの公式と、有限群についてのコーシーの定理。 凸多面体についてのコーシーの剛性定理。 『解析教程』で研究されたコーシーの関数方程式 $f(x + y) = f(x) + f(y)$。 確率論のコーシー分布。アニェージの曲線の形をしていて、平均をもたない。 厳密さ もっとも大きかったのは態度の変化である。コーシー以後、解析学の結果は、明確な定義から証明されてはじめて認められる。そしてその定義は彼のものである。極限、収束、連続、導関数、積分。次の世代のワイエルシュトラス、デデキント、カントールがこの仕事を完成させ、一様収束のように、コーシーが直観を信じすぎたところを正した。しかし彼らが改修した建物は、コーシーのものだった。 ルイ・グレゴワールとドヌーによるコーシーの石版画、1840 年ごろ。下に数学者の署名がある。Louis Grégoire、Deneux · ウィキメディア・コモンズ · パブリックドメイン 人物 同時代の人びとは、彼を信心深く、貧しい人に気前がよく、疲れを知らず、そしてほとんどつきあいようのない人物として描いた。政治と宗教では一歩もゆずらず、同僚を改宗させようとし、発見の優先権を激しく争い、アカデミーの査読者としては手きびしかった。アーベルとガロアには彼に不満をもつ理由があったし、技師ジャン=ヴィクトル・ポンスレは、射影幾何学についての自分の考えを横取りしたと彼を非難した。その一方で、彼はひとつの誓いへの忠誠のために経歴を危険にさらし、信念を裏切るよりはと八年間パリを離れた。コーシーの生涯では、科学者と、信仰と党派の人とを切り離すのはむずかしい。 ゆかりの場所 コーシーは、1889 年にギュスターヴ・エッフェルがエッフェル塔に名前を刻ませた 72 人のフランスの科学者・技術者のひとりである。月の静かの海にはコーシーというクレーターがあり、パリ、ソー、そしてフランスのほかのいくつもの町に彼の名のついた通りがある。 エッフェル塔の南東面に刻まれたコーシーの名。ギュスターヴ・エッフェルが顕彰した 72 人の科学者のひとり。Juanedc · ウィキメディア・コモンズ · CC BY 2.0 演習:コーシーの関数方程式『解析教程』でコーシーは、すべての $x, y$ について $f(x + y) = f(x) + f(y)$ をみたす連続関数は $f(x) = cx$ の形のものだけであることを証明した。その議論をたどり直せ。 $c = f(1)$ とおく。$x = y = 0$ とすると $f(0) = 2f(0)$ なので $f(0) = 0$。くり返し足すと、すべての正の整数 $n$ について $f(n) = nf(1) = cn$ で、$f(x) + f(-x) = f(0) = 0$ から負の整数でも成り立つ。正の整数 $q$ について、$c = f(1) = f\!\left(q \cdot \frac{1}{q}\right) = q\,f\!\left(\frac{1}{q}\right)$ だから $f\!\left(\frac{1}{q}\right) = \frac{c}{q}$、さらに $f\!\left(\frac{p}{q}\right) = c\,\frac{p}{q}$。公式はすべての有理数で成り立つ。どの実数も有理数の極限であり、$f$ は連続だから、すべての $x$ で $f(x) = cx$ である。

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画像クレジット

歴史的な画像と写真 すべてウィキメディア・コモンズから得た。コモンズが提供するファイルまたはサムネイルを使い、幅を最大 800 ピクセルに縮小したほかは手を加えていない。 オーギュスタン=ルイ・コーシーの肖像、ベルチの写真にもとづくルドルフ・ホフマンの石版画(1856):元のページ · パブリックドメイン。 コーシーの油彩肖像、1840 年ごろ、ジャン・ロレール作とされる、ソー城所蔵:元のページ · パブリックドメイン。 コーシーの石版画、ルイ・グレゴワールとドヌー作、1840 年ごろ、スミソニアン図書館ディブナー・コレクション:元のページ · パブリックドメイン。 青銅メダイヨン、ピエール=ジャン・ダヴィッド・ダンジェ作(1843):元のページ · CC0。 『解析教程』の扉(1821)、汚れを除いた版(GIF から JPEG に変換):元のページ · CC0。 エッフェル塔に刻まれたコーシーの名、Juanedc 撮影:元のページ · CC BY 2.0。 ソーの墓地にあるコーシーの墓、Antoine Rex 撮影:元のページ · CC0。 ブログのために作った図 表紙と四つの対話型の図(二分法、コーシーの判定条件における幅 ε の帯、円にそった 1/(1 + z²) の積分、回転する切り口での応力ベクトル)はオリジナルのイラストで、サイトの各言語の文章がついている。 記録 ファイル data/cauchy_imagens.json に、ダウンロードした各画像の出典、ライセンス、確認日、SHA-256 ハッシュを記録している。各テーマの歴史的な出典は、それぞれの記事の末尾にある。 オーギュスタン=ルイ・コーシーの全トピック · ← コーシーの遺産

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コーシーと極限:無限に小さいものをどう書くか

このサイトの以前の記事は、この話題を一つの冗談から始めていました。二つの等しい数 $a=b$ をとり、害のなさそうな計算をしてみます。 $$\begin{aligned} a&=b\\ a^2&=ab\\ a^2-b^2&=ab-b^2\\ (a+b)(a-b)&=b(a-b)\\ a+b&=b\\ 2b&=b\\ 2&=1. \end{aligned}$$まちがいはどこでしょうか。四行目から五行目に移るとき、両辺を $a-b$ でわりました。でも $a=b$ なので $a-b=0$ で、ゼロでわってしまったのです。書き方が罪を隠しています。$a-b$ はふつうの数のように見え、最初の行を覚えている人だけが、それがゼロだと気づくのです。変装したゼロでのわり算は、数学者が不定形と呼ぶもの、有名な $\frac00$ のいちばん簡単な形です。 微積分が残した問題 ニュートンとライプニッツの微積分は、ゼロであると同時にゼロでない量に支えられていました。$x^2$ を微分するのに、ライプニッツは $\frac{(x+dx)^2-x^2}{dx}=2x+dx$ を計算し、それから $dx$ をゼロであるかのように「無視」しました。けれども $dx$ がゼロなら、二行前でそれでわることはできなかったはずです。うまくいくのに、なぜなのかだれにも説明できませんでした。 1734 年、アイルランドの主教ジョージ・バークリーは『解析家』という激しい攻撃文を出版しました。宗教的な信仰をあざ笑いながら、それよりはるかに奇妙なものを信じている「不信心な数学者たち」に向けたものです。 では、この流率とは何か。消えゆく増分の速さである。では、その消えゆく増分とは何か。それは有限の量でも、無限に小さい量でも、無でもない。それを死んだ量の亡霊と呼んではいけないだろうか。 — ジョージ・バークリー『解析家』(1734) バークリーは論理については正しく、微積分についてはまちがっていました。計算はうまくいっていました。欠けていたのは、それが何をしているのかを言う言語だったのです。 コーシー:到達せずに近づく その言語はフランスからやってきました。1821 年、オーギュスタン=ルイ・コーシーはエコール・ポリテクニークの『解析教程』を出版し、中心となる考えを言葉で定義しました。 同じ変数に次々と与えられる値が、ある固定された値に限りなく近づき、ついにはそれとの差を望むだけ小さくできるとき、その固定された値を、ほかのすべての値の極限と呼ぶ。 — オーギュスタン=ルイ・コーシー『解析教程』(1821) 秘密は「望むだけ小さく」にあります。$dx$ は決してゼロにはならず、いくらでも近くにとどまるのです。数十年後、ドイツのカール・ヴァイエルシュトラスはこの文を文字に置きかえました。どんなに小さくても、あらゆる誤差の幅 $\varepsilon>0$ に対して、近さを保証する距離 $\delta>0$ が存在する。これが有名な「イプシロン・デルタ」の定義で、今でも大学一年生を恐れさせています。 $$\begin{aligned}\lim_{x\to a}f(x)=L\iff{}&\forall\varepsilon>0\ \exists\delta>0:\\ &0<|x-a|<\delta\Rightarrow|f(x)-L|<\varepsilon.\end{aligned}$$記号 $\forall$(すべての)と $\exists$(存在する)に注目してください。論理学の記事でくわしく見ることになりますが、推論の書き方が微積分のために使われているのです。無限に小さいものは、ものであることをやめ、約束になりました。どんな $\varepsilon$ でもいい、言ってくれれば $\delta$ を見つけてみせる、という約束です。 lim、矢印、そしてそれらが隠すもの 記法にも時間がかかりました。1786 年、スイスのシモン・リュイリエが「極限」の略記としてピリオドつきの lim. を書きました。lim の下の小さな矢印 $x\to a$ が広まったのは 20 世紀のはじめで、おもにイギリスの G・H・ハーディの本『純粋数学教程』(1908)のおかげでした。最終的な書き方は、簡潔で生きています。