最初の六つの章は、記法をそれ自体として見てきた。だれがそれぞれの記号を考え出したのか、それは何を意味するのか、それで何ができるのか。この章は、記法を学ぶ人の側から見る。透明な記号などひとつもない。$\frac{dy}{dx}$ を、いや $304$ でさえ、読むためには、各部分が何をし、どの順序で組み合わさるのかを知っていなければならない。そしてその知識は、何年もかけて少しずつ身につくものである。
書かれた数学は独自の文法をもつ第二の言語であり、ほとんどいつも第一の言語と混ざり合ったかたちで学ばれる。ポルトガル語の子どもは「トレゼントス・イ・クアトロ(三百と四)」と聞いて、五けたではなく三けたの数字を書かなければならない。生徒は「三倍多い」と読んで、それが三倍なのか四倍なのかを決めなければならない。大人は SNS で $6 \div 2(1+2)$ を見て、まともな二人が同じ一行を二通りに読めることを知る。この道のりで現れる誤りが怠けのせいであることはまれだ。ほとんどいつも、ある規則に従っている。ただ、その規則がまちがっているのである。だからこそ誤りは、読み手が何を理解したかをのぞく窓になる。
この章はもう一方の側、つまり書くことも見る。ガウスとラマヌジャンはノートを、ほかの数学者が解読に何十年もかかるほど圧縮された書き方で埋めた。そして目の見えなかったアブラハム・ネメスは、紙の上で位置だけが示していることを声に出して言いさえすれば、数学の書きものは指でも耳でも読めることを示した。