年表

  1. 1826
    9 月 17 日、ハノーファー王国のブレゼレンツに、ルター派の牧師の息子として生まれる。
  2. 1846
    ゲッティンゲン大学に入り神学を学ぶが、まもなく数学に移る。
  3. 1847
    ベルリンに移り、ディリクレ、ヤコビ、シュタイナー、アイゼンシュタインに学ぶ。
  4. 1851
    ゲッティンゲンで、ガウスの指導のもと、複素関数についての論文で博士号を得る。
  5. 1854
    6 月 10 日、幾何学の基礎についての教授資格講演をおこなう。
  6. 1857
    アーベル関数の理論を発表し、員外教授となる。
  7. 1859
    ディリクレの後を継いでゲッティンゲンの正教授となり、ベルリン・アカデミーの会員に選ばれる。素数についての論文を発表する。
  8. 1862
    エリーゼ・コッホと結婚する。結核にかかる。
  9. 1866
    7 月 20 日、イタリアのセラスカで 39 歳で没する。

牧師の息子

ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマンは 1826 年 9 月 17 日、北ドイツのハノーファー王国の村ブレゼレンツに生まれた。同じくフリードリヒ・ベルンハルトという名の父はルター派の牧師で、ナポレオンとの戦争に従軍した経験があった。家は貧しく、ベルンハルトは六人きょうだいの二番目だった。十歳まで勉強を教えたのは父である。

ブレゼレンツの教会のそばにあるリーマン記念の石。リーマンが生まれ、父が牧師を務めた村である。
ブレゼレンツの教会のそばにあるリーマン記念の石。リーマンが生まれ、父が牧師を務めた村である。Felina Katarina Schulz · Wikimedia Commons · CC BY-SA 4.0

十四歳でハノーファーのリツェウムに送られ、祖母の家に住んだ。祖母が亡くなると、リューネブルクのギムナジウムに移った。内気で、家を恋しがり、作文が苦手な生徒だった。校長は彼の数学の才能に気づき、自分の蔵書を貸した。伝記作者の伝える話では、リーマンは九百ページ近いルジャンドルの数論の本を一週間足らずで返し、読み終えたと言ったという。

神学か数学か

1846 年、リーマンは息子を牧師にしたいという父の望みに従って、ゲッティンゲン大学で神学を学びはじめた。しかしガウスの講義をはじめ数学の講義に出るうちに、専攻を変えたいと父に願い出た。父は承知した。翌年リーマンはベルリンへ移り、ヤコビ、シュタイナー、アイゼンシュタイン、そしてなによりペーター・グスタフ・ルジューヌ・ディリクレに学んだ。明晰で厳密で、計算の背後にある考えを大切にするディリクレは、彼の手本となった。

若いころのベルンハルト・リーマン。1850 年代の写真。
若いころのベルンハルト・リーマン。1850 年代の写真。作者不詳 · Wikimedia Commons · パブリックドメイン

1849 年にゲッティンゲンへ戻ると、物理学者ヴィルヘルム・ヴェーバーの助手として働きながら、複素変数の関数についての博士論文を準備し、1851 年 12 月に口頭試問を受けた。めったに人をほめないガウスが、所見に「輝かしく実り豊かな独創性」と書いている。リーマン面が登場するのは、この論文である。

1854 年の講演

ドイツの大学で教えるには、教授資格を得なければならなかった。二つめの論文と公開講演である。三角級数による関数の表現についての論文は、リーマンに積分とは何かを正確に定義させ、並べかえ定理の発見に導いた。

講演については、候補者が三つの題目を出し、学部がそのひとつを選ぶことになっていた。リーマンは入念に準備した電気についての題目を二つと、ほとんど形式的に幾何学の基礎についての題目を三つめに出した。ところがガウスは、一つめを選ぶ慣例に反して三つめを選んだ。リーマンはもっとも難しい題目を急いで準備しなければならなくなったが、1854 年 6 月 10 日のこの講演は幾何学の歴史でもっとも重要な講演のひとつとなった。デデキントの記録によれば、ガウスは深く感銘を受けて会場を出たという。

リーマンが 1854 年から 1857 年まで住んだゲッティンゲンの家の銘板。大学で教えはじめたころである。
リーマンが 1854 年から 1857 年まで住んだゲッティンゲンの家の銘板。大学で教えはじめたころである。Manecke · Wikimedia Commons · CC BY-SA 3.0

ゲッティンゲンの教授

ガウスは 1855 年に亡くなり、ディリクレがベルリンからやってきてその講座を継いだ。固定給のない私講師として苦しい暮らしをしていたリーマンは、1857 年にアーベル関数の理論を発表して員外教授に任命された。1859 年にディリクレが亡くなると、リーマンが後継者に選ばれた。かつてガウスのものだった講座に就いたのである。同じ年、彼はベルリン科学アカデミーの通信会員に選ばれ、慣例に従ってアカデミーに論文を送った。それが素数についての論文だった。

病

1862 年、リーマンは妹の友人エリーゼ・コッホと結婚し、娘がひとり生まれた。結婚して数か月後、風邪が結核に変わった。リーマンは翌年の冬をシチリアで過ごし、それからはもっとおだやかな気候を求めて、ゲッティンゲンとイタリアを行き来して暮らした。イタリアでは、ピサのエンリコ・ベッティのように、彼を敬愛する数学者たちと出会った。

1866 年 6 月、病の重くなったリーマンは最後のイタリア旅行に出て、マッジョーレ湖のほとりのセラスカに落ち着いた。そして 1866 年 7 月 20 日、39 歳でそこに没し、近くのビガンツォーロの墓地に葬られた。墓石には『ローマの信徒への手紙』の一節が刻まれている。「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働く」。

マッジョーレ湖のそば、ビガンツォーロの墓地にあるリーマンの墓石。ブレゼレンツでの誕生とセラスカでの死の日付が刻まれている。
マッジョーレ湖のそば、ビガンツォーロの墓地にあるリーマンの墓石。ブレゼレンツでの誕生とセラスカでの死の日付が刻まれている。g.rondena · Wikimedia Commons · パブリックドメイン
練習:短い生涯

リーマンは 1826 年 9 月 17 日に生まれ、1866 年 7 月 20 日に亡くなった。亡くなったとき何歳だったか。1854 年の講演のときと、1859 年 11 月に素数の論文を提出したときは何歳だったか。

1866 年 7 月にはその年の誕生日をまだ迎えていないので $1866 - 1826 - 1 = 39$ 歳。1854 年 6 月には $1854 - 1826 - 1 = 27$ 歳。1859 年 11 月には 9 月の誕生日を過ぎているので $1859 - 1826 = 33$ 歳である。

練習:ルジャンドルの本

ルジャンドルの本がおよそ 860 ページで、リーマンがそれを六日で読んだとすると、一日に何ページ読んだことになるか。一日 8 時間読んだとすれば、一ページに何分かけたことになるか。

$\frac{860}{6} \approx 143$ ページ毎日である。8 時間は 480 分だから、一ページあたり $\frac{480}{143} \approx 3.4$ 分になる。数論の本としては速すぎる読み方で、この話を文字どおりには受けとりにくいが、少年がどんな印象を与えたかはよくわかる。

出典: Richard Dedekind、「Bernhard Riemann’s Lebenslauf」、Bernhard Riemann’s Gesammelte Mathematische Werke(1876)所収 · Detlef Laugwitz、Bernhard Riemann 1826–1866: Turning Points in the Conception of Mathematics(1999) · リーマンの伝記、MacTutor · John Derbyshire、Prime Obsession(2003)。


ベルンハルト・リーマンの全トピック · リーマン積分 →

画像クレジット.